第354話 令和4年3月25日(金)「退院」日野可恋

「おかえりなさい」


 ひぃなが満面の笑みで出迎えてくれる。

 その背後には無事に大学進学を決めた華菜さんの姿もあった。

 私は母の車からマンションの前に降り立つ。

 一時帰宅の時には、車中で体調が悪化してそのまま病院にUターンすることも考えたほどだったので感慨に耽る余裕はなかった。

 このマンションに暮らし始めて3年ほど経つがいちばん「自分の家」という感じがする。


「ただいま」


 手荷物は多くなかったが、手提げ鞄を華菜さんが持ってくれる。

 私は「ありがとうございます」と頭を下げ、ゆっくりと歩き出した。

 背後にある中学校の正門では私を歓迎してくれるように桜が咲き誇っている。


 幸いなことに早期発見と化学療法が功を奏し、無事に寛解に至った。

 現代の医療ならよほど運が悪くない限り死ぬ可能性は低いだろうと予想はしていた。

 それでも、こうして退院することができて胸をなで下ろす思いだ。

 再発のリスクはゼロではない。

 ただ私の場合はほかの病に罹患する可能性も高いので考えすぎても仕方がない。

 とにかく、いまはできることに全力を尽くすだけだ。


 ひぃながすっと手を伸ばす。

 彼女の年齢の割に幼く見える右手を私は包み込むように握った。

 あたたかく温もりに満ちたその手は、私が守らなければならないものであり、私を導いてくれるものでもある。


 手を引かれて我が家に到着する。

 久方ぶりの帰宅に懐かしさがこみ上げてくる。

 入院は慣れたものとはいえ、自宅の安心感は段違いだ。


「少し休む?」とひぃなから気遣われたが、私は首を横に振り「ソファーでいいよ」と答えた。


 クリスマスイヴの一時帰宅時はベッドからほとんど離れられなかったが、今日はそこまでの疲労は感じていない。

 手洗いを済ませ、ベランダから陽差しが入るリビングの一角にあるソファーに腰掛ける。

 病院の中では季節が感じられなかったが、いまやすっかり春の陽気だ。

 抗がん剤の副作用でのたうち回ったことを記憶から消去できれば、冬眠していただけだと軽口を叩けそうだ。


 ひぃなは今日は対面ではなく私の隣りに身体を寄せて座った。

 口数が少ないのは私の負担を考えてのことだろう。

 華菜さんが紅茶を淹れて持って来てくれた。

 その香りに日常が戻って来たと感じる。

 デザートにはチョコレートのプチケーキが幾種類か並べられていた。

 ムースケーキを取り分けてもらい、チョコの匂いも堪能する。

 華菜さんには夕食のメニューも尋ねられた。

 退院祝いに腕によりをかけて作ると請け負ってくれた。


「あー、やっぱり肉ですね。100g数千円くらいする和牛。量はまだ食べられないので少量でいいですけど……」


 私の好みを熟知している華菜さんはやっぱりという顔つきになった。

 ひぃなは心配そうな表情でこちらを見るが、「食べ過ぎなければ平気」と答えて安心させる。

 さすがに病室で焼肉という訳にはいかない。

 食欲が回復したとはまだ言い難いが、それだからこそ好きなものを食べるのは効果的かもしれない。


 華菜さんが「準備してくるね」と出て行ったので、この広い部屋に私とひぃなのふたりだけとなった。

 私が「どう最近?」と問い掛けると、ひぃなの口がようやく滑らかに動き出す。


「卒業式では旧館での記念写真を希望する生徒が多くて、特別に一部エリアを解放したの」


 旧館は耐震性に問題があったため補強工事を行っている。

 理事の中からは取り壊す意見も出ていたが、紫苑の映画によっていまや”聖地”扱いである。

 工事もそろそろ終わる頃合いだ。

 旧館を今後どう利用していくかは次の生徒会に委ねたいと思う。


「それで、茶道部の吉田さんや文芸部の湯崎さん、演劇部の新田さん、あと前生徒会長の芳場先輩からも可恋によろしくって言われたよ」


 ひぃなは指折り数えながら名前を挙げていった。

 前者の三人からはひぃなを通してお見舞いの品も届いている。

 近いうちに返礼をしておかなければならないだろう。


「もう2年生か。授業にちゃんと出たのは1学期だけだったからみんなから忘れられた存在になっていそう」


 ひぃなは「そんなことないよ」と反論してくれたが、忘れ去られていたとしてもたいした問題ではない。

 それに退院はしたもののすぐに通学することは難しいだろう。


「体調や感染状況を見ながらだけど、ゴールデンウィーク明けくらいから授業に出られたらと思っているんだけどね」


 私の発言にひぃなは躊躇いながら「同じクラスになれるよね?」と問い掛けた。

 中学生の時も政治力を利用してひぃなと同じクラスになったが、それを再び期待しているようだ。


「聞いてない? 次年度からクラス替えがなくなったの」


「え? そうなの?」と彼女は驚きの声を上げた。


「授業がかなり複雑な選択制になって、基礎科目は習熟度別に変更されているからクラス単位でまとまって受けるのは体育とか教養とか数時間だけになるよ。だから、クラス替えしても馴染むのが大変だろうって」


 臨玲では2年生から大学での履修登録のように自由度の高い選択制授業を導入することになった。

 長所も短所もある制度だが理事長の肝いりである。

 習熟度別授業もより進化させる。

 やってみてうまく行かなかったでは済まされないので、制度設計を任された北条さんは苦心したことだろう。


「そっか……」と嬉しそうな笑みを浮かべたひぃなに、私は「そうだ!」と多少わざとらしく声を掛ける。


 黙ってこちらを見上げるひぃな。

 透き通るような白い肌に、吸い込まれそうな大きな鳶色の瞳。

 睫毛の一本一本からして神の造型と言いたくなるような完璧な顔立ちをしている。


「もうすぐひぃなの誕生日だから、一足早くプレゼントを渡そうかなって」


 ひぃなは喜ぶというよりも訝るような目つきになった。

 彼女の誕生日は三日後の28日だ。

 当日に渡せない事情があるとかプレゼントが生ものであるとかいった理由でもなければ前倒しで渡す必要などないはずだから。


 私はポーチから書類を取り出す。

 そして、こう告げた。


「ひぃなに五億円融資するね」


「……」


 目の前の彼女は理解不能という表情で固まっている。

 私はニヤニヤ笑いながらそれを見ていた。




††††† 登場人物紹介 †††††


日野可恋・・・臨玲高校1年生。10月末の臨玲祭の直後に病気が判明して長期入院を余儀なくされた。生まれつき免疫系の障害を持ち、幼少期は入退院を繰り返していた。


日々木陽稲・・・臨玲高校1年生。新型コロナウィルスによる一斉休校を機に可恋と同居するようになった。


日々木華菜・・・陽稲の姉。この春、志望していた大学に合格した。料理が好きで、将来もそれを生かした仕事を望んでいる。


日野陽子・・・可恋の母。某超有名私立大学教授。仕事柄、人に会うことが多く、感染状況が悪い現在可恋との接触を極力控えている。

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