第209話 令和3年10月31日(日)「臨玲祭 後編」高月怜南
目の前に広がるのは非常に密な光景だった。
廊下を埋め尽くす人、人、人。
思わず「密だね……」と私が呟くと、隣りにいる愛梨も「密だね」と顔をしかめた。
初めて訪れた臨玲高校の文化祭『臨玲祭』。
大スターである初瀬紫苑が監督した短編映画を見て、素敵なカフェで昼食を摂った。
気分がハイテンションに近い状態で愛梨のクラスに向かったが、そこでこのカオスに出くわした。
愛梨のクラスの出し物は落語会だ。
クラスの全員がひとり数分間の持ち時間で落語か何かを行う。
ほかの芸でもいいそうだが、落語なら覚えるだけで済むのでそれを選択する人が多いとのことだ。
「昨日は校内の生徒のみで行われたからボクの落語は受けが悪かったんだよ」
そう話す愛梨に私が疑いの目を向けると、彼女はスラスラと言葉を紡ぎ出す。
難しい言葉が淀みなく出て来る。
ただ落語というより念仏に聞こえる。
そんなに落語を聞いたことはないが、彼女のは演じるというよりも文章を諳んじているだけのような気がした。
「記憶力が凄いことは伝わるけど、面白さはこれっぽっちもないね」と素直な感想を口にすると、ジロリとこちらを睨んでから「日々木さんが喜んでくれたから十分さ」と愛梨は誇らしげに語った。
……お愛想って言葉を知らないんだろうねぇ。
「それで、本当に初瀬紫苑は出るの?」と私は話題を逸らす。
「昨日は出なかったからそうじゃない? 落語会についてはクラスの担当者しか詳細を知らないと思うけどね」
愛梨は生徒会や所属する陸上部の準備に精を出していたそうだ。
だから、この混雑振りに驚きを隠せないでいた。
「これ、大丈夫なの?」
最近は感染状況が改善し、もう大丈夫だろうという空気も広がりつつある。
一方で、海外では新たな変異株が猛威を振るっているという報道も耳にする。
すっかり身についた新しい生活習慣が人だかりに近づきたくないという警戒心を呼び起こす。
「さすがにマズい……と思う」と愛梨が答えた。
その表情には焦りの色が見える。
おそらくこの人たちは落語会目的で並んでいるのだろう。
この真新しい仮設校舎の廊下の幅は普通の公立学校にあるそれの倍くらいの広さがある。
そんな廊下いっぱいに広がっているため列の体をなしていない。
行列はおばさんといった感じの人が多数を占め、男の人や若い人は少数派だ。
そして、彼女たちは暇を持て余して話に夢中になっている。
「あっ!」
私は背後から突き飛ばされそうになって声を上げた。
愛梨が運動神経の良さを生かして支えてくれたから助かったが、危うく転ぶところだった。
私たちは最後列から少し離れて立っていた。
そこに割り込むようにおばさん連中が突進してきたのだ。
私は「何するのよ!」と声を荒らげる。
だが、私の身体を支えていた愛梨が「まあまあ」と宥めて、廊下の端まで引っ張って行く。
振りほどけない私はそれに従うしかなかった。
私が愛梨に不満をぶちまけるより先に「澤田さん!」と声が掛かった。
声の方に視線を向けると、人波をかき分けて制服姿の生徒が手を振ってこちらに駆け寄ってきた。
「良かった。大変なのよ!」
「大変って、この行列のことだよね?」と愛梨が落ち着いた声で尋ねる。
自分より困惑している人を見て冷静になったようだ。
対する女生徒は興奮気味にまくし立てる。
「教室の中も人がいっぱいで入り切らないし、もう入らないと言っても廊下にいる人たちは動こうとしないし、どうして良いか分からなくて……」
「西口さん、そもそもどうしてこんなことに?」と愛梨が問うと、西口と呼ばれた生徒はあからさまに目を逸らし「客の入りが悪かったから、初瀬さんが出るって情報を流せばいいかなって……」と小声で説明した。
……いや、当然こうなるだろ。
私は心の中でツッコミを入れる。
彼女たちにとっては初瀬紫苑は見慣れた存在かもしれないが、メディアに滅多に出ない彼女を間近に見ることができるとなれば誰もがこぞって集まるのは当然だ。
真面目そうな雰囲気の生徒だけど、私に言わせれば軽率の一語に尽きる。
「出ないって言えばいいんじゃない?」と愛梨が解決策を提示するものの、相手は「そんなことを言えるムードじゃないよ。それに折角お客さんが入ってくれたのに……」と泣きそうな顔で訴えた。
私ならネチネチと責め立て泣かせるところだが、愛梨は辛抱強く説得を試みようとしている。
それに対してまともな反論ができず、口籠もることが増えてきた。
さっさとどうにかした方がいいんじゃない? と口を挟もうとした直前、「落語会の責任者ですか?」と声が掛かった。
涙目で俯いていた西口という子は顔を上げ、「はい、私です」と返答する。
声を掛けてきた臨玲の制服を着た二人組は「風紀委員です」と腕章を示し、「えーっと、これ、どうなっているんですか?」と廊下を振り返りながら困惑の表情を浮かべた。
「すみません!」と叫ぶように西口さんは頭を下げる。
それでじっと固まってしまった。
仕方ないといった顔で愛梨が説明を始める。
風紀委員たちは説明を受けたもののどうすべきか戸惑っているようだ。
「こういう時こそ日野さんの出番じゃないの?」
とうとう私は愛梨に問い質した。
彼女とは少し距離があったし、廊下は結構うるさかったのでそれなりに大きな声で。
当然ほかの人の耳に入る。
風紀委員たちは不審そうにこちらを見たが、私は気にせず「すぐに連絡したら」と行動を急がせる。
このままでは埒が明かないし、いつどんなトラブルが発生するかも分からない。
「分かった。会長に指示を仰ごう」と愛梨はスマホを取り出す。
そして、メッセージを送りつつ「人手が必要になると思います。動ける人を集めてもらえますか」と風紀委員に声を掛けた。
こんなところに初瀬紫苑が姿を見せたら大騒ぎになりかねない。
群集心理なんて言葉もある。
私はただひとり呆然としている西口という生徒に「初瀬さんに、こっちに来ないよう言っておいた方がいいんじゃない?」と忠告した。
「本当に凄い人気なのね」と西口さんはしみじみと語る。
「いま日本でもっとも影響力を持っている芸能人のひとりよ。ファンでなくてもひと目見たいと思うものよ」
そう口にする私自身がそうだ。
取り立ててファンという訳ではないが、見れるものなら見たいと思う。
生で見たなんて言えば自分のクラスでマウントが取れそうだし、事務所の売り出し方が良いのかメディアに踊らされていると感じていても格好いいと思ってしまう。
日野さんや日々木さん、あとちょっとだけではあるが愛梨も特別な人間だ。
オーラみたいなものを持っていて、否が応でも視線を向けてしまう。
おそらく初瀬紫苑もそういう人間だ。
一度はこの目に焼き付けておきたいと思っても仕方がないだろう。
そんな思いを抱いているうちにさらに混雑の度合いが増してきた。
もう私たちのいる廊下の端まで行列が迫ってきていた。
「うわー、大変だねぇ」と暢気そうな声が耳に届いた。
現れたのは日々木さんと安藤さんだ。
臨玲の大人っぽい制服のお蔭で小学生に間違われることはないと思われる日々木さんだが、この半年余りのうちに身長が伸びている気配はない。
ただ顔つきは中学時代よりも大人っぽくなっているかもしれない。
この混沌を目にしても余裕の笑みを浮かべ、舌足らずな声音が緊迫感を失わせた。
日々木さんを守るように付き従うのが安藤さんで、大げさに言えば日々木さんの倍くらいの長身と鉄の甲冑を着ているかのような筋肉の持ち主だ。
同じクラスになったことはなかったが、これだけ目立つ生徒はほかには日々木さんしかいない。
「可恋――会長は手が離せないのでわたしが来ました」
風紀委員のふたりは大丈夫かといった顔で日々木さんを見つめている。
一方、愛梨は信頼しきった面持ちだ。
「紫苑は講堂で演じてもらいましょう。ここに集まった人には整理券を発行して対応します」
日々木さんはそう発言すると私に向かって「しばらく澤田さんをお借りしますね」と詫びた。
その笑顔を見て嫌だとは言いづらい。
私は肩をすくめて「貸しね」と笑みを返す。
「澤田さんは整理券を準備してください。良い紙を使ってくださいね。
風紀委員は手分けしてお客様への説明をお願いします。
西口さんは教室の中にいるクラスメイトを安心させてください。不安に思っているでしょうから」
テキパキと指示を飛ばしたあと、日々木さんは何か思いついたような顔でこちらに向き直った。
天真爛漫といった瞳で私に話し掛ける。
「高月さん、講堂での準備を手伝ってもらっていいかな?」
私が即答できずにいると、「紫苑を特等席で見れるよ」と悪魔の囁きを放った。
日野さんに似てきたなあと感じつつ、私はその申し出を了承した。
断るなんてできないでしょ!
††††† 登場人物紹介 †††††
高月
澤田愛梨・・・臨玲高校1年生。自称天才。実際に記憶力などは高いレベルを誇る。ただし他人の心情を酌み取る力などは平均以下。怜南とは中学3年時のクラスメイト。
日々木陽稲・・・臨玲高校1年生。子どもの頃から天使や妖精と言われ、その外見はいまも変わらない。本人は中身も見た目も成長を望んでいるが……。
安藤純・・・臨玲高校1年生。競泳のトップスイマーだけあって筋肉は並外れたレベル。無口なので怜南と会話したことはない。
日野可恋・・・臨玲高校1年生。生徒会長。どんなトラブルも解決してみせるんじゃないかというチート級の人物。
初瀬紫苑・・・臨玲高校1年生。中2の時に公開された映画で一躍有名になり、いまや若者から圧倒的な支持を得る映画女優。露出が少ないのは事務所が彼女の性格を考えてのこと。
西口凛・・・臨玲高校1年生。クラス委員長。臨玲祭に憧れてこの高校に進学した。普段は冷静で真面目だが処理能力の容量を超えた模様。
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