第263話 令和3年12月24日(金)「クリスマスイヴ」日々木陽稲

 可恋は長身でスタイルが良い。

 純ちゃんと違って服の上からだと筋肉が目立たない。

 可憐な美少女だ。

 ただし、掌を見るとただ者ではないと気づく。

 とても厚みがあり、そこらの男性よりもずっしりとしている。


 幼少期から常に病魔に襲われてきた彼女がいままで生きながらえて来たのはこの手があったからかもしれない。

 生きることを諦めなかった手。

 懸命に生をつかみ続けた、そんな手だ。


 その手がいまは痛々しく見える。

 肌に張りはなく、色艶も健康的とは言い難い。

 指先は荒れ、少し伸びた爪も痛んでいる。

 触れると、かさついた手は氷のように冷たかった。


 わたしは可恋が横たわるベッドの隣りに腰掛け、彼女の爪をヤスリで削る。

 普段なら決して怠らない爪の手入れが入院生活ではできていなかった。

 黙々と、心を込めて、丁寧に磨いていく。

 いま可恋のためにわたしができることはこんなことしかなかったから。


「ひぃなの手は温かいね」


 寝転がったまま可恋が口を開く。

 ニット帽と大きなマスクの間の目がこちらに向いていた。

 切れ長の、意志の籠もった目が彼女の魅力なのに、別人のように精彩を欠いていた。


 今日はクリスマスイヴ。

 数日前に突然一時帰宅の許可が下りたと教えてくれた。

 慌ただしく受け入れる準備をした。

 掃除は毎週行っていたもののもっとしっかりやっておきたかった。

 クリスマスの飾り付けもほんの小さなツリーを部屋の隅に置いただけだ。

 話したいこともいっぱいあって、昨日の夜はなかなか寝つけなかった。


 終業式が終わってマンションに駆けつけた。

 可恋は母親である陽子先生に送られてすでに帰ってきていた。

 歓喜と不安が入り混じったまま彼女の部屋のドアを開け、この部屋の主のようにドンと居座る巨大ベッドに視線を向ける。

 そこには眠れる森の美女がごとく臥せる可恋の姿があった。

 気配を感じたのか可恋は薄目をあけ、わたしはひと言「おかえり」と挨拶した。


 しばらくはぐったりと疲れているように見える可恋と言葉を交わすことなく、ただ様子をじっと見ていた。

 そのうち彼女がこちらへ手を伸ばし、わたしは気になった爪の手入れを始めた訳だ。


「……わたしのために無理しなくていいのに」


 左手の爪をすべて綺麗に整えてから、わたしは蚊の鳴くような声で本音を漏らす。

 嬉しかったのは事実だが、いまの可恋を見れば無理して欲しくない気持ちが勝った。


「こんなに疲れるとは思ってなかったんだ。実際にここのところ調子が良かったからね」


 入院してから1ヶ月半以上経つ。

 その間に面会ができたのは数回だが、電話やメッセージでのやり取りはしていた。

 検査で病気が早期に判明したため、ここまで辛そうな彼女の姿を見ることはなかった。

 病名の深刻さにショックは受けたものの、可恋の「必ず退院する」という言葉を信じていた。


「本当に薬がよく効いて、予想よりも早く回復できそうだって思ったんだけどね。自宅療養に切り換えられたらという願いは虚しくか……」


「無茶しないでね」とわたしは絞り出すように声を発する。


 誰よりも健康に気を使う可恋だから無茶はしないはずだが、それでもそう口にしてしまう。

 わたしに看護や介護ができればいいが、体格差もあって身体を支えることすらできそうにない。


「もうひとつの目的は……」と可恋は視線を枕元のノートパソコンに向けた。


 そして、おどけたように「年明けになるとまたコロナが流行りそうだし、その前にいろいろと準備をしておこうかなって」と話す。

 わたしは雰囲気を変えようとした彼女に合わせて、「わたしに会うためよりも仕事のために帰ってきたんだ」と苦笑してみせた。


 可恋は病院にはスマートフォンしか持ち込んでいない。

 治療に専念するためだと語っていた。

 彼女は数多くの業務を抱えている。

 高校生としては生徒会長の仕事だけだが、社会人としてNPO法人代表の立場や臨玲高校理事としての職務、またプライベートカンパニーの経営も担っている。

 それらはいつ自分が倒れても大丈夫なように調整しているそうだ。

 実際、今回の長期入院でも大きな混乱は生じていない。


「ホントはひぃなにメリークリスマスって言うために帰ってきたんだけどね」


 それまで虚ろだった可恋の瞳に生気が宿った気がした。

 甘い声音にようやく気持ちが和らぐ。

 わたしは少しは疲れが取れたのかと思い、「何か食べる? ちょうどお昼だし、お弁当を持って来たの。ケーキも買ってきたよ」と声を弾ませて尋ねた。

 しかし、可恋は目元に優しい笑みを浮かべたまま「ひぃなは食べてきて。母も食べてないと思うし」と答える。


「飲み物だけでも」と追い縋ると、「ひぃなが食べ終わったらいただくよ」と言われてしまった。


 この貴重な時間。

 1分1秒でも長く側にいたい。

 だが、「ひぃなはちゃんと食べて」と念を押されると従わざるを得なかった。


 リビングでは陽子先生がプリントアウトした紙の束に目を通していた。

 わたしが「お昼、食べませんか?」と誘うと、先生は大きく伸びをしてから「そうね、ご相伴にあずかるわ」と応じた。

 朝、わたしとお父さんで作ったお弁当を広げる。

 いくつかはレンジで温め、残りそうなものはあらかじめタッパーに詰めておく。


「陽稲ちゃん、年末年始はどうするの?」


「帰省します。4、5日程度になると思いますけど、大規模な新年会がないのでのんびり過ごせると思います」


 わたしの祖父である”じぃじ”のところへ帰省するのは毎年の恒例行事だ。

 新型コロナウィルスの影響で去年は新年会がなく本当に顔見せ程度の帰省だった。

 今年もお姉ちゃんが受験ということもあって、長期滞在はしない予定だ。


「可恋は陽稲ちゃんのお祖父様にとてもお世話になっているから、キチンとご挨拶をしないといけないのに……」


「いえ、陽子先生がお忙しいのは”じぃじ”もよく分かっていますので。むしろ可恋に負担を掛けたのが病気の原因じゃないかと気に病んでいて、陽子先生に謝罪したいと話していました」


 そして、「可恋は他人のせいで病気になるほど自己管理ができていないなんてことは決してないと断言していました」とつけ加える。

 可恋は睡眠時間を削ることは絶対にしないし、運動や栄養管理など健康のために人一倍努力している。

 仕事上のストレスはあるだろうが、それ以上に楽しくてたまらないという顔をしていることが多い。

 それでも病魔を避けられないのは彼女の生来の体質に依る。

 もちろん可恋は感謝こそすれ生んでくれた母親を責めることはしない。

 ただこの体質というくびきには思うところがあるだろうが……。


 食事を終えると、わたしは紅茶を淹れて可恋の部屋へと運ぶ。

 この香りが彼女に安らぎをもたらしてくれたらと願いながら。

 可恋はわたしが部屋を出た時と同じ姿勢のままベッドで寝ていた。

 眠っているのかと思ったが、香りに誘われるように目を開けた。


 持って来たトレイをベッドサイドに置き、「飲む?」と声を掛ける。

 表情は起き上がるのも億劫という感じだが、ベッドを操作してリクライニング機能を使い上体を起こした。

 ソーサーごとティーカップを渡すと、彼女はマスクを着けたままカップに顔を近づける。

 そして香りを楽しむと「病院に戻りたくなくなるね」と真情を吐露した。


 泣かないと決めていたのに涙腺が緩む。

 そんなわたしに気づいた可恋が「大丈夫。元気になって帰ってくるから」と微笑みかけた。

 わたしが可恋を励まさなきゃいけないのに、逆になってしまった。

 落ち込みそうになるが、気持ちを奮い立たせる。

 いま、暗い顔をしてはいけない。

 顔を上げ、笑顔を作る。

 とびっきりの笑顔を。


 わたしは可恋を信じる。

 何が起きようと、世界を敵に回そうと、可恋を信じる。

 だから、わたしの返事はこうだ。


「待っているよ、可恋」




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木陽稲・・・臨玲高校1年生。天使のような容姿の持ち主。可恋と同居していたが入院中は実家に戻り、週末だけ可恋のマンションに来ている。


日野可恋・・・臨玲高校1年生。生まれつき免疫系の障害を持ち、幼少期から入退院を繰り返していた。空手を習うことで体力をつけ、徐々に普通の生活を送れるようになった。それでも病気がち。


日野陽子・・・可恋の母。某超有名私立大学の教授職に就いている。女性の社会問題を扱いその分野では広く名前が知られる存在。可恋を出産した頃に離婚して仕事どころではない時期を過ごしたが、その後は仕事にのめり込む生活を送るようになった。

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