第314話 令和4年2月13日(日)「バレンタインチョコ」麻生瑠菜

 中学時代「バレンタインのチョコレートを手作りするのって憧れるよね?」と話していた友人に、「えー、重たくない? あたしが男だったら、ちょっと引くわー」と話していたあたしが三日三晩チョコレート作りに勤しんでいる。

 生まれて初めての大本命のバレンタインチョコ。

 あたしの頭の中には手作り以外の選択肢がなく、ただどんなチョコを作り上げるかしか考えられない状態になっていた。


 三連休初日。

 寮の調理場を借りて、いそいそとチョコレート作りを始める。

 用意したのはカカオ豆から作れるというチョコレートキット。

 そう、カカオ豆の皮を剥くところからスタートするのだ。


 そんなあたしを渡される相手であるいぶきは呆れた顔で見つめていた。

 同じ寮に暮らしているため、こっそり隠れて作るという訳にはいかない。

 むしろあたしの頑張りを見ていて欲しいという気持ちもある。


「手伝おうか?」という申し出を断り、カカオ豆を一粒手に取る。


 先輩たちも興味深そうに覗き込んできた。

 チョコレート特有の香りが周囲に漂い、それだけで気分はハイテンションになる。

 だが、すぐに「つ、爪が……」と悲鳴を上げてしまった。


「切ってきた方がいいんじゃない?」といぶきは心配してくれる。


 いや、まあ、そうなんだけど。

 でも、せっかく綺麗に伸ばしているのだ。

 チョコを贈る時にはピカピカにして、完成品を手に持って写真に残したい。


 迷うあたしを見かねて、いぶきは包丁を持ってきてカカオ豆に切れ込みを入れ始めた。

 このくらいはいいでしょと目で語られ、あたしは渋々頷く。

 実際のところは手伝ってくれてムチャクチャ嬉しかったんだけど。


 慣れない作業は1時間近く続き、ようやく皮むきが終了だ。

 これだけで随分やり遂げた感があった。

 しかし、チョコレート作りはまだ序の口に過ぎない。

 いよいよこれをすり潰して粉のようにしなければならないのだ。


 寮と言っても寮生は6人しかいない。

 調理器具も一通りは揃っている感じだが、何でもあるとは限らなかった。


「すり鉢はこれで良さそう」とずっしり重い大きなすり鉢を台の上に載せる。


「フードプロセッサーで砕いておいた方が良いみたい」と自分のスマホに視線を落としたいぶきが指摘する。


 あたしたちの食事は寮母さんが作ってくれる。

 お袋の味といった感じの和食が得意で、寮生の中には不満を口にするひともいるが、あたしは気に入っていた。

 寮母さんがフードプロセッサーを使っているかどうかは不明だ。

 そして、彼女はいま買い物に出掛けていた。


 ふたり掛かりであちこち探したものの見当たらなかった。

 帰ってくるのを待つ時間が惜しいと思い、あたしは「いいよ、もう。すり鉢で始める」と宣言する。

 すりこぎで上から押しつぶすと大きなカカオ豆が砕けた。

 これならと体重を掛けてさらに力を込める。

 いぶきが近づいてきてすり鉢を抑えてくれた。


 カカオの匂いが強まる。

 調理場は足下の電気ストーブだけなので結構寒いが、すりこぎをゴリゴリ回すだけで額に汗が滲んできた。

 いぶきが「顔、真っ赤だよ」とあたしを見て微笑んだ。

 チョコレートの強烈な香りを挟んで、最愛の人と共同作業をしている。

 媚薬効果というか、チョコレートってちょっとヤらしい気分になるじゃん。

 だから、すぐ側にいるいぶきが艶めかしくて、彼女を食べてしまいたいと思ったのは仕方のないことだったのだ。


「……いぶき」


 あたしが彼女を見つめて名前を呼ぶと、彼女はこちらを見上げて口を開いた。

 その艶やかな唇が、「手、止まってるよ」と動く。


「あ、ごめん」


 慌てて手を動かしながら、この気持ちをどう静めようと考えていた。

 だが、それは杞憂だった。


「あー、もう無理」


 擦っても擦っても粉っぽくならない。

 腕はダルさを通り越して痛くなってきた。

 肩にも力が入らない。

 普段運動不足という訳ではないが、これは明日筋肉痛という流れだろう。


「替わろうか?」と何回目かのいぶきのセリフに、あたしはとうとう頷いてしまった。


 だって、擦る作業はこれで終わりではないからだ。

 作り方を書いたペーパーを読むと、このあと湯煎しながら擦る作業があり、その次には砂糖を加えて擦るという作業がある。

 ひとりで擦り続けるなんて絶望しか見えてこない。

 擦り始めてから1時間近く経っている。

 もうこれ以上は無理だ。


「見た目以上に大変だね」と表情を変えずにいぶきが語った。


「そーなのよー。もう腕と肩が限界でー」と相づちを打ちながら、「ごめんねー。いぶきのために作っているのに、いぶきに手伝わせることになっちゃって……」と笑顔を見せながら答える。


 だが、その笑顔が崩れていく。

 涙声になりながら「本当にごめん。あたしの愛が足りなくて……」と堰を切ったように謝罪と反省の言葉が口を衝いて出てきた。

 ひとりで突っ走って周りに迷惑を掛ける。

 わたしにはよくあることで、いつも反省はしているのに繰り返してしまう。

 いぶきはいちばんあたしの側にいるからいちばん被害を受けている。

 今日のように……。


「休憩しよう」といぶきが声を掛けた。


 すり鉢の中のココア豆はかなり粉状になっていて、そろそろ次の段階へ進めそうだった。

 いぶきはすり鉢に蓋をして『チョコレート制作中』のメモを貼り、あたしの手を引いて調理場を出た。


 向かったのはいぶきの部屋だった。

 いつものようにあたしが彼女のベッドの縁に腰掛けると、彼女はあたしの隣りに座った。


「迷惑だなんて思っていないから」


 いぶきの優しい言葉に涙腺が完全に崩壊した。

 あたしは彼女の胸に顔をうずめて声を上げて泣いた。

 いぶきは戸惑っているようだったが、あたしの好きにさせてくれた。


 しばらくして、ようやく泣き止んだあたしが顔を上げるといぶきはサッと視線を逸らす。

 それがとても可愛くて、あたしは心からの笑顔になった。


「ありがとう、いぶき」


 素直に感謝を伝えると、彼女はますます顔を逸らした。

 耳が真っ赤になっていたから照れているのだろう。


「先にシャワーを浴びればよかった。この部屋中にカカオの匂いが充満してる」


「あー、もうチョコレート作るの面倒だから、お互いをチョコレートってことでプレゼントすれば良いんじゃない?」


 あたしの提案にギョッとしたような顔でいぶきはこちらを見た。

 普段あまり感情を表に出さないだけに、ちょっとした心の動きが見られてとても楽しくなる。


「わたしはちゃんとしたの用意したから。瑠菜もここまで頑張ったんだから最後まで作らないと」


「それはそれ。これはこれ」とあたしはいぶきの身体に覆い被さる。


 ふたりの身体から湧き立つチョコレートの香りは脳を痺れさせ、感情の赴くままに身体が動く。

 女子高生の身体は温かく、柔らかく、心地よく、幸せに包まれるようだ。

 余りにも気持ちよすぎて疲れていたあたしの肉体は瞬く間に眠りへと誘われてしなった……。




††††† 登場人物紹介 †††††


麻生瑠菜・・・高校1年生。鎌倉三大女子高のひとつ「高女」に通う。寮ではこの三校の生徒6人が暮らしている。


香椎いぶき・・・高校1年生。鎌倉三大女子高のひとつ「臨玲」に通う。今年5月に開催予定の三校合同イベントの実行委員を瑠菜とともに務めている。

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