第308話 令和4年2月7日(月)「ティーカップ」日々木陽稲
ガシャン!
持っていたトレイが傾き、コーヒーカップがふたつ滑り落ち床に激突したのだ。
声を上げる間もなかった。
白いカップはフローリングの床の上を転がっていく。
そして、足下には茶色い液体が飛び散っている。
「ヒナ!」という呼び掛けに我に返った……はずだった。
だが、気が動転してしまいトレイが手から落ちる。
どうしてこんなことになってしまったのか。
先ほどよりも大きな音が鳴り響き、わたしは呆然と立ち竦んだ。
「ケガはない?」とお姉ちゃんが駆けつけてくれた。
お父さんはモップと雑巾を持って台所から現れた。
ようやく気を取り直したわたしは「わたしが!」と主張するが、居間から顔を覗かせたお母さんに「陽稲はこっちに来なさい」と呼び出された。
想像以上に遠い場所までコーヒーは撒き散らされていた。
あとから落とした紅茶とデザートのロールケーキが惨めな光景を作り出している。
わたしはそれを避けながら、居間に向かった。
後片付けをするお父さんとお姉ちゃんに悪いと思いながら。
「……ごめんなさい」
わたしが蚊の鳴くような声で謝るとお母さんは「ケガはないのね?」と念を押す。
幸いコーヒーも紅茶も自分の方ではなく反対側に零れたので火傷にはなっていなかったが、よく見ればブラウスやスカートに染みができていた。
靴下も汚れているだろうと思い、急いで居間の絨毯の上でそれを脱ぐ。
洗濯籠に入れようと洗面所に向かうが足取りは重かった。
……こんな派手な失敗はいつ以来だろう。
昔は体力がなくて手伝いさえさせてもらえなかった。
それが許されるようになってからも周りが気を配ってくれたのでそんなに大きなミスをすることはなかった。
わたし自身用心していたというのもある。
居間に戻る。
着替えたかったが、その前に掃除の手伝いがしたい。
すぐにでも台所に向かいたかったが、お母さんはわたしに何か話があるようだった。
「気に病むことじゃないからね」
しばらく言い淀んだあと、お母さんがそう口を開いた。
わたしは神妙な顔つきで頷く。
もう高校生なんだし、こんなことで落ち込んだりはしない。
落ち込んだりはしないが、お母さんの言葉で少し気持ちが軽くなる。
うちの家族はみんなこういう時にすぐに動ける。
体力がなく運動神経も乏しいわたしはいつも助けてもらう側だった。
お母さんは病気の影響で以前のようには行動に移れなくなったが、それでもわたしの手を借りようとはせずに何でも自分でやろうとする。
可恋と暮らしていた時も、わたしは助けてもらってばかりだ。
お姉ちゃんが後片付けを終えて居間に戻ってきた。
お父さんは代わりのものを用意しているらしい。
「損害はヒナのティーカップだけだったよ。残念だったね」
お姉ちゃんの言葉にわたしは首を横に振る。
紅茶好きの可恋に触発されて買ったものだったが、わたしのせいだから仕方がない。
そして、「ごめんなさい。……ありがとう」と謝罪と感謝を同時に口にした。
「いいよ」とお姉ちゃんは微笑む。
いつもの、頼り甲斐のあるお姉ちゃんの笑顔。
この笑顔にどれだけ助けられてきたか。
「でも……」とわたしが口籠もると、お母さんが「受験生に『落ちた』は禁句だものね」と笑い声を上げた。
「そんなことを気にしているようじゃ合格なんてできないんじゃない」とお母さんにキッパリ言われ、お姉ちゃんは肩をすくめる。
わたしに対しては「気にしなくていいよ」と言ってくれたが大学受験へのプレッシャーはかなり感じているようだ。
頭をかいて、「あー、早く料理がしたい」と嘆きながら席に着く。
本命の大学の受験日は2月末だ。
それまでは好きな料理作りを封印して勉強に集中するそうだ。
お父さんがトレイを運んできた。
わたしを除く3人の飲み物は先ほどと一緒だが、ロールケーキはクッキーに替わっている。
わたしの分はマグカップになっていて、ココアの甘い香りが漂ってきた。
自分の席に座ったお父さんにも謝意を伝え、それからマグカップに口をつけた。
受験生であるお姉ちゃんよりも病み上がりのお母さんよりもわたしに対して家族は気遣ってくれている。
わたしがこの家に戻った時は可恋の入院が決まった時であり、かなりショックを受けていた。
メソメソこそしなかったが、元気というにはほど遠い状況だった。
その後、可恋が回復して明るい希望を抱けるようになるとわたしも調子を取り戻した。
だが、年が明けてからは面会に行けなくなり、可恋の体調も優れない日が多いと聞いている。
特に最近は可恋からの連絡が短いメールひとつだけという日が続いて心配が募っている。
「ティーカップには悪いけど、ひとつ厄を落としたと思えば良いわ」
いつの間にかココアの表面を見つめていたわたしが顔を上げる。
発言したお母さんに「厄?」と尋ねると、「ティーカップが陽稲の災いや不幸を代わりに引き受けてくれたのよ」と諭すように答えてくれた。
「それなら、わたしのカップも割れてて欲しかったな」とお姉ちゃんが茶化すように言うと、「自分の力で成し遂げられることを神頼みしてはダメよ」とお母さんが切り返す。
「でも、人の力ではどうしようもないことはあるからね」
お母さんは3年前に自分の母親を交通事故で亡くしているし、自身も生死に関わる病で倒れた。
それだけに実感の籠もる口調だった。
「……どうすればいいのかな?」
わたしの口から出たのは漠然とした質問だった。
これ以上は怖くて言葉にすることすらできない。
「……信じて祈る。日頃の行いが良い陽稲なら、届いて欲しいわ」
それまでわたしに言い聞かすように話していたお母さんが最後は感情が溢れ出した。
みんな可恋のことを知っている。
小さい頃から辛い日々を過ごしたことも。
ようやく人並みの生活ができるようになったことも。
誰よりも必死に生きていることも。
……どうして可恋ばかりこんな目に。
その気持ちを家族が共有してくれているから、わたしはなんとか前を向いて毎日を過ごすことができている。
唇を噛み締めながら頷く。
可恋と紡いだ絆は切れたりしない。
わたしは片時も身体から離さないスマートフォンを左手で握り締め、可恋に呼び掛ける。
その時、スマートフォンが振動とともに着信音を鳴らした。
可恋からだ!
わたしは自分の中では歴代1位のスピードで電話に出る。
『ごめん。しばらく電話できなくて。食事終わった?』
変わらぬ可恋の声。
わたしは涙ぐんでいることを隠せずに「可恋……」と名前を呼んだ。
『いまは副反応の問題だから時間が解決してくれると思う。ひぃなには心配を掛けるけど、大丈夫』
電話では可恋の言葉がどこまで本当なのか読み取れない。
わたしはただその言葉を信じるだけだ。
「うん。待っているから、焦らずに治してね。わたしは大丈夫だから」
一方、わたしのセリフは嘘だとバレバレだろう。
とても大丈夫そうな声ではない。
涙だけでなく鼻水も出て顔面は酷いことになっている。
可恋は優しく『分かった』と答えた。
こんな状況なのにまたわたしが助けられている。
それを情けなく思うものの、強がったって解決はしない。
わたしは精一杯思いの丈を伝え、可恋の回復を祈願した。
すべての発言が家族の前だったことに思い至ったのは電話を終えてからだった。
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