第306話 令和4年2月5日(土)「糸」日野可恋
指先を動かすことすら難しい。
意志の力を総動員しても瞼が上がらない。
24時間ずっとではないが、倦怠感の波が繰り返し私を襲う。
現実と幻覚の区別も曖昧だ。
数日に一度、気力を振り絞ってひぃなと電話で話をするが、以前語ったことなのか夢で言ったことなのか分からなくなってしまう。
痛みには慣れている。
薬で和らげることもできる。
だが、このどうしようもない怠さには打つ手がない。
病気自体は早期発見早期治療によって快方に向かっている。
再発のリスクは残るが、いまの医学の力なら日常を取り戻すことが可能だろう。
問題は治療薬の副反応だ。
その副反応を抑える薬を摂取し、その副反応を抑える薬を摂取し、その副反応を……と無限ループに陥る中で、これは受け入れざるを得ない症状だと理解している。
「二十歳まで生きられない」という医師の言葉が脳裏に刻み込まれているが、私はまだ17歳にもなっていない。
ひぃなをファッションデザイナーとして世に出すという最低限の役目は果たしたが、自分がやりたいことはどれも道半ばだ。
幼少期にあんな呪いのような言葉を吐いた医師に普段は恨みしか抱いていないが、いまは責任を取って二十歳までは最低でも生きさせろと詰め寄りたくなる。
……そんなエネルギーはどこにもないのだけれど。
病院の個室は静かで、いまが昼か夜かも分からない。
それでも日付の確認だけは忘れない。
今日は2月5日で北京オリンピックは開幕しているはずだ。
入院以降、世の中の動きはほとんど分からない。
それでも面会の制限が厳しくなり新型コロナウィルスがまた猛威を振るっていることだけは知った。
私はみなが無事であるようここで祈ることしかできない。
こんな取り留めのない思考ですら長時間続けられない。
夢の中でならひぃなと楽しい会話を繰り広げられるから眠り続けていたいとさえ思う。
その会話の内容がまったく記憶に残らなくても。
彼女の笑顔を思い浮かべるだけで私は絶望せずにいられる。
「……の数値は……」
ふと気づくと担当医の話し声が聞こえた。
微睡んでいたようだ。
いや、違う。
どこか遠くで私の声が聞こえた。
どうやら私は医師と話している最中のようだ。
まるで多重人格者のように、この”私”は会話中の”私”を他人事のようにぼんやり眺めている。
目を開けていないので見えている訳ではないが光景は頭に浮かぶ。
読書に熱中している時に感情移入をして作品内に入り込んでいる”私”と客観的に作品を見つめる”私”が混在することがあるが、それに近い感覚だ。
医師は投薬量を減らす提案をしているようだ。
それに対して”私”は強く反対している。
実際には”私”とは思えないように呂律が回らないたどたどしい話し方になっている。
ロジカルさに欠け、ほとんどうわごとのようだ。
この”私”が目覚めたことでふたつの”私”が統合し、少しはマシな反論ができるようになった。
治療に時間を掛けるとリスクが高まるというのは建前だ。
私は一日も早い退院を望んでいる。
リハビリは自宅でもできる。
具体的には1ヶ月半。
彼女の誕生日までに回復するという強い想いが私の心の支えになっている。
フィクションではないので気持ちだけではどうにもできないことがあることは分かっている。
だが、闘病に関して精神面の影響は小さくない。
空手で鍛えた体力と精神力、そして最新医学をフルに使ってこの苛酷なミッションをやり遂げてみせる。
どうやら担当医は私の意見を汲んでくれたようだ。
私はいつの間にか入っていた肩の力を抜く。
この一連のやり取りが幻覚でなかったという保証はない。
もうベッドの周囲に人の気配はないし、夢を見ていたかのような気もするからだ。
しかし、いまの私に現実かどうかなんてたいした問題ではない。
現実に起きた時にまた繰り返せば良いだけの話なのだから。
……待っていて。
世界から切り離された空間で、私と繋がるただひとつの細い糸。
それは儚げだが、私の目には決して切れることのないケブラー糸やグラスファイバーのように強靱に映る。
……大丈夫。きっと大丈夫。
夢とうつつの狭間で私はそう信じていた。
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