第190話 令和3年10月12日(火)「才能」足利柊子
「負けたからっていちいち泣くんじゃないよ」
「だって……」
将棋盤を挟んで対面している相手は目を真っ赤に潤ませていた。
幼さが残る中性的な顔立ち。
肌は白く、髪は男の子のように短い。
腕は棒きれのように細く、ちゃんと食べているのか心配になってくる。
泣き虫で、いつも怯えているような雰囲気なのに、将棋だけは人が違った。
「春からは中学生なんだよ」
わたしの声には怒気とともに羨望が含まれていた。
将棋の世界では若さこそが才能の評価基準だ。
過去に中学生でプロ棋士になった人たちは将棋界を代表する存在となった。
タイトルホルダーの大多数も10代のうちにプロである四段に昇段した。
遅咲きなんて例外中の例外だ。
毎年自分より若い子が現れ、自分の限界を突きつけられてしまう。
特に、いま目の前にいるあゆみはわたしに才能の違いというものを知らしめた。
3歳歳下で、見た目は全然強そうにないのに棋力は……。
いや、いまも練習将棋でなら勝てる。
彼女の長所と短所を理解しているのでどう指せば良いか分かっているからだ。
だが、それを理解しているからこそ彼女の伸び代の大きさも実感することができる。
自分の強さの伸びを感じないこと、下からの突き上げ、生理のイライラが重なって、衝動的に人生をリセットしたいと思ったのだ。
「感想戦は?」と聞くと、「……する」と彼女は口を開いた。
自分が負けた将棋を終わった直後に振り返るのだから、感想戦は辛いものがある。
負けた原因がハッキリしていたら、やっても意味がないとパスすることも多いが、あゆみは感想戦を欠かさない。
彼女は素早い手つきで中盤の入口くらいの局面まで手を戻し、聞き取りづらい小さな声で「ここ……」と本譜とは異なる手を示した。
わたしは研修会に所属している。
そこはプロ棋士養成機関である奨励会とは違い様々な棋力の人が集まっている。
将棋の勉強だけならインターネット対戦でできるが、プロを目指すのなら対面での対戦経験も必要だ。
感染症対策のせいでいろいろ制限がある中で、研修会で鍛えられる機会は貴重だった。
そのため、わたしは馴れ合いを嫌った。
同世代同士で仲良くしているのを見ると不快さが表情にも表れた。
ライバルを倒し、引きずり下ろして、プロという狭き門をくぐることを目指しているのに友だち面なんかするなよと。
わたしは見た目がおとなしそうに見えるため、最初はよく声を掛けられた。
しかし、わたしの考えを知るとみんな離れて行く。
それで何の問題もないと思っていた。
そう、問題はなかったのだ。
強くなっているうちは。
同世代はおろか上の人間も追い抜いて、わたしは先に進む。
それができると信じていたのに、中学生になってから壁にぶち当たった。
勝ったり負けたりが続き、強くなる手応えがなくなった。
勉強法を試行錯誤すればするほど泥沼にハマった気がする。
それまでたいしたことがないと見ていた男子に追い抜かれていったことが死ぬほど苦しかった。
周りはきっとわたしのことをバカにしているだろう。
孤高を気取っていたのに、いまや地べたを這いずり回っているのだから。
あゆみは昨年の夏頃研修会に入った。
負けてばかりだし、ほとんど喋らないので誰からも相手にされなかった。
わたしとの接点は家が近かったというだけだ。
研修会は東京で土日に行われる。
小学生だとたいてい親が送り迎えするが、たまたま彼女がひとりで帰らなくてはならないことがあった。
良かったら送っていってくれないかと頼まれ、わたしはまあいいかと引き受けた。
おとなしそうで、手が掛からなそうだったから。
そして、会話もまったくなく電車で最寄り駅まで帰り着いた。
駅で別れようとした時に、初めて彼女が口を開いた。
いや、それまでも何か言っていた気はするが、わたしは聞いていなかった。
将棋以外のことには興味がなかった。
聞く気になったのはお礼がしたいという言葉のあとに「一局指して欲しい」とつけ加えられていたからだ。
彼女の家まで送って、そこで初手合いを行った。
いかにも素人という手つきで彼女は指し、結果はわたしの完勝だった。
時間の無駄だったと口にこそしなかったものの、そう感じるのも当然の力の差があった。
しかし、彼女に求められて行った感想戦で考えが変わった。
短い時間の将棋だったのに、一手一手を深く読んでいる。
わたしが考えていなかった妙手まで指摘され、わたしは背筋が寒くなった。
……このまま弱いままでいて欲しい。
おそらくそれまでのわたしならその考えを実行に移していたはずだ。
放置していても大丈夫だろうが、心を折って二度と将棋を指したくないと思わせることだってやろうと思えばできた。
なのに、わたしの口から出て来たのはアドバイスだった。
「プロの、トップ棋士の棋譜を、自分が指す気持ちで並べなさい」
「……はいっ!」
それからの1年であゆみはわたしと肩を並べるクラスまで昇級した。
まだまだ経験不足だが、周囲からは奨励会入りに近いと一目置かれている。
わたしもこの1年伸び悩んではいても大崩れしていないのは彼女とのバーサス(1対1の練習将棋)を続けているからかもしれない。
感想戦が終わると「もう1局お願いします」とあゆみは頭を下げた。
もう少ししたら、わたしがお願いする立場に回るかもしれない。
将棋界ではハッキリしたメリットがなければ練習につき合ってはくれない。
彼女が奨励会に入ってしまえば、わたしと練習する時間は無駄になる。
走り続けなければ置いて行かれるこの世界で、それは致命傷だ。
あゆみは力戦に持ち込み、わたしの駒を押さえ込みにかかった。
こういう展開になると彼女の強みが発揮される。
普段はこれを避けて戦うようにしているが、たまには彼女の強さを計ってみたかった。
形勢が30対70くらいに苦しくなった局面でわたしは口を開く。
「つい先日ね、わたし、自殺しようとしたの」
盤面を見つめていたあゆみが「えっ!」という叫び声とともに顔を上げた。
あまり感情が表情に出ない彼女がいまは目を丸くして驚いている。
「秒読みよ」というわたしの声に促されて彼女は再び盤上に視線を戻すが、指した手は明らかな悪手だった。
形勢は逆転し、わたしは鼻唄交じりに指し続ける。
彼女は「ありません」と投了を告げ、すぐに「ズルいです」と非難した。
「本当のことよ。本番ではなく練習将棋で言ったことに感謝してね」
悪びれずに言ったわたしに彼女は心配そうな眼差しを向ける。
同情してわたしに勝てなくなってくれたら儲けものだ。
「わたし、春からは高校生なんだ。もう若くはないの。すべてから逃げ出したくて死のうとしたら不思議な出逢いがあったのよ」
わたしより1学年上のふたりの女性。
とても同じ歳には見えないそのふたりは真剣にわたしの話を聞いてくれた。
将棋界のこともよく知る大人びた女の人と、あゆみとたいして変わらない年齢に見える女の子。
「だから、死ぬ気で頑張って、わたしは強くなるよ」
ほとんど初心者だったあゆみはたった1年で強くなった。
才能の凄まじさを間近でまじまじと見た。
わたしにはそんな才能がないと痛いほど思い知った。
死にたいほど分かってしまったのだ。
だが、まだ終わりじゃない。
ふたりから教わったことをベースに、将棋に対する取り組み方を見直すつもりだ。
それでダメだったら……。
その時に考えよう。
††††† 登場人物紹介 †††††
足利
沙藤あゆみ・・・小学6年生。たまたま読んだ本で将棋のことを知り、習ってみたいと親に言ったところ研修会入りすることになった。共働きの両親の下で一人っ子。
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