第191話 令和3年10月13日(水)「向上心」初瀬紫苑

「向上心のないものは馬鹿だって言ったのは漱石だったっけ?」


 昼食は1階のカフェから運んでもらい生徒会室で摂ることが多い。

 可恋のために作られたと言ってもいいこの生徒会室は空調に優れ、匂いが残ることもないので快適だ。


「『こころ』の中で鍵になっているセリフだね。『精神的に向上心のないものは馬鹿だ』は」


 私の言葉に即座に答えたのは可恋だ。

 陽稲も知っていたようだが、こういう時は出しゃばってこない。


「ホントにそうだと思うわ」


 蘊蓄を語り出しそうな可恋を遮って、私は吐き捨てるように言った。

 今度は陽稲が顔をしかめて「まだ紫苑に緊張しているんだよ」と私を宥めようとした。


「だからって、毎日ミスを繰り返すなんて」


「アルバイトだからね。多くを求める方が間違ってるよ」


 可恋の達観した物言いに、「あんな子、首にしなさいよ。可恋ならできるでしょ!」と私は問い詰める。

 問題になっているのは最近カフェに入ったウエイトレスの女性だ。

 私たちより少し歳上だが、とんでもなく頼りない。

 注文ミスや給仕の失敗などが多発していて、接客の基本ができていない。

 とりわけ私の前ではガチガチになって会話の受け答えすらままならない状況だ。

 今日は私と陽稲の料理を間違えて出そうとして、それを指摘すると慌てて皿をひっくり返した。

 涙目で謝る彼女に呆れ果てた私は、「出てって!」と部屋から追い出した。

 その後可恋たちが取りなして食事は用意されたが、半分ほど手をつけただけで食欲が失せてしまった。

 生徒会室のコーヒーメーカーで淹れたコーヒーを飲んで心を落ち着けようとしたが、カフェインが仕事をしているとは言い難い。


「働く人に向上心を求めるのは経営者側の理屈なのよ」


 不満たらたらの私に可恋は冷めた表情で告げる。

 私は眉間に皺を寄せ鋭い視線を彼女に送った。


「好きなことを仕事にしてそれが生き甲斐って人なら向上心を抱いて当然だけど、仕事にやり甲斐を求めるのは本末転倒してると思わない?」


「でも、給料をもらっているのだからそれ相応の仕事をするのが当たり前でしょ?」


「そう。給料分の仕事をするのは当たり前だけど、それ以上を求めるのは間違いってことよね」


「あれのどこが給料分の仕事なのよ」と文句を言うと、「まだ見習い期間だし、紫苑の前以外ではよくやっているみたいだから問題ないよ」と可恋は答えた。


「納得できないわ」と声を尖らせると、陽稲が「ちゃんと食べないから怒りっぽくなるんじゃない?」と母親っぽい言い方をする。


「人を雇うのも大変なのよ。カフェのオーナーとは対等のパートナーという関係だから、契約に反する行為でもないと人事に口を挟むなんてできないしね。あの程度のミスで口出しする気もないし」


 可恋のプライベートカンパニーがこの新館の管理運営を担っていて、カフェの選定だけでなく内装を始め営業の細部にまで指示を出しているのは周知のことだ。

 新人のウエイトレスが自分の気に食わない人だったら絶対に対処しているはずだ。

 表面上はきれい事を言っていても権力を行使することに躊躇いを見せる人間ではない。


「でも、やる気のある人の方が良いよね。雇うのなら」と陽稲が可恋に反論したのは私を追い詰めないようにだろう。


 その空気を読まずに可恋は「そうでもないよ」とサラリと答えた。

 彼女は「適材適所だね。向上心が求められる仕事もあれば、給料分だけ頑張ってくれれば十分という仕事もある。後者のところに向上心を持つ人が来ても、その場は良くてもあとあと難しいことになるかもしれないしね」と顎に手を当てて言葉を続けた。


 彼女が代表を務めるNPO法人では多くのアルバイトを使っているが、個々人の能力や意欲のバラツキに頭を悩ませることがかなりあるらしい。

 低すぎてもダメだが高すぎてもダメというのは贅沢な悩みのように聞こえるが、「頑張るなとは言いづらいじゃない。でも、そういう人がいるとそれが新しい基準になってしまうのよ」と可恋は内心を吐露した。


「ひぃなや紫苑のように仕事と興味と自己実現の方法が一致していればいいけど、世の中はそんな人ばかりじゃないしね。仕事は仕事と割り切っている人に向上心を求めるなら、インセンティブが必要なのよ、本当は」


 そして、いまの日本では報酬などのインセンティブなしに仕事にやり甲斐を求めることが自然になってしまっていると可恋は嘆いた。

 例えば、売れない役者だとタダどころか持ち出しで芝居に出たいと思う者もいる。

 だが、それで利益が出てもまともに報酬が支払われないシステムだと演劇界が先細りになることは目に見えている。

 それと同じことが日本の至る所で起きていると可恋は指摘した。


 そんな経済の話を大所高所からされても納得できるものではない。

 私がムスッとした顔つきを崩さないでいると、カフェの店長と例のウエイトレスが生徒会室にやって来た。


「申し訳ございませんでした!」とウエイトレスは深々と頭を下げる。


 可恋たちや店長が私の反応をじっと見ている。

 さすがに子どものように癇癪を起こす訳にはいかない。

 私は怒りの表情は残したまま、「分かったわ。これからは気をつけてね」と鉾を収めた。


 店長が彼女を生徒会室の担当から外すと言ったのに、可恋は「そこまでしなくても良いんじゃないですか」と私の神経を逆なでする発言を行った。

 陽稲も「これにめげずに頑張ってください」と勇気づけている。


「これじゃあ私が悪いみたいじゃない」と不平を口にすると、「理不尽な体験をするのも芸の肥やしになるんじゃない」と可恋は皮肉で返した。


「余計なお世話よ」


「見ての通り、初瀬紫苑も普段はただの高校生なので、そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」と可恋はウエイトレスに微笑んでみせた。


 恐縮したまま店長たちは部屋から出て行った。

 続いて、私と陽稲が教室に向かおうと腰を上げた時に可恋は何気ない風に口を開いた。


「他人のミスって事前に分かるよね」


「何かしでかしそうとは感じるけど……」と陽稲が答え、私も頷く。


「予測ができればミスは避けられるんじゃない?」


 考えてみればあのウエイトレスの失敗に巻き込まれているのは私と陽稲だけだ。

 私に対して極度に緊張しているからそれが当然だと思っていたが、あの女性のやらかしに陽稲も被害は受けている。


「オーダーで間違えにくいものを頼むとか確認を入れるとか手はあるじゃない。サーブの時だって失敗しにくいものを頼むとか手伝うとか、こちらでできることをしないと」


「それって給料分の仕事のうちでしょ」と私が声を上げると「だから?」と可恋は心の中まで見通すような黒い瞳をこちらに向けた。


「ちょっとした気遣いでミスがなくなる方が良いよね」と陽稲が得心した顔を見せる。


「これもまた人間関係を良くする向上心なんじゃないかな」と可恋が綺麗にまとめ、私はフンッと鼻を鳴らして生徒会室をあとにした。




††††† 登場人物紹介 †††††


初瀬紫苑・・・臨玲高校1年生。生徒会広報。中学2年生の時に出演した映画でブレイクし、いまや押しも押されもせぬ人気女優となっている。


日野可恋・・・臨玲高校1年生。生徒会長。NPO法人代表以外にも臨玲高校理事を務め、プライベートカンパニーを通して学校側と様々な契約を請け負っている。紫苑や陽稲と違い、趣味=仕事ではないので仕事にやり甲斐を求められても困る派。


日々木陽稲・・・臨玲高校1年生。生徒会副会長。ファッションデザイナーとして臨玲の新しい制服のデザインを担当した。それに伴い起業して、年商1億円を目指しているところ。

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