第151話 令和3年9月3日(金)「首相退陣」芳場美優希
「どういうこと!」
私は家に帰り着くなり使用人相手に声を荒らげた。
応じた相手は運転手同様「詳しいことは……」と言葉を濁す。
今日は9月上旬とは思えないほど肌寒い一日だった。
3年生の仮設校舎は本館の表側、駐車場の一部を占有して建てられている。
授業が終わり週末を迎えて沸き立つ教室で、クラスメイトのひとりがスマホを手に私に声を掛けてきた。
「美優希のお父さん、ニュースに出ているよ」
そんなことは日常茶飯事だ。
一国の総理がニュースに取り上げられない日なんてない。
だから気にも留めていなかったのに、彼女は「ほら」とスマホ画面を私に見せた。
そこには首相が総裁選に出馬しないと書かれていた。
私は眉をひそめて「どういうこと?」と問い返す。
彼女はそんなことも知らないのという顔で「もうすぐ与党のトップを決める選挙があるじゃない。そこに立候補しないって言ったみたいね。つまり、総裁選のあと新しい総理大臣に変わるってこと」と説明した。
私は「聞いてない!」と口走って急いで帰宅した。
だが、家に帰ってもお母様は居ず、ほかに私に詳しい説明をしてくれる人の姿もなかった。
私のお父様は長く官房長官という地位に就いていた。
正直その頃の私は政治のことにはまったく興味がなく、ただ父の顔をよくテレビで見るなくらいにしか思っていなかった。
お母様は私に婿を取りお父様の跡を継がせたいと考えていた。
それが煩わしかった。
私には姉がふたりいるが、血は繋がっていない。
ふたりはそれなりに自分の意思で生きているように見えて羨ましかった。
そんな中、突然お父様がこの国の総理大臣に選ばれた。
私にとっては寝耳に水だ。
お母様は狂喜乱舞し、私もこの国でいちばん偉い人の娘だと言われて誇らしく思うようになった。
お母様の言う通りに政治家の妻となり、この周囲からの羨望の視線を浴び続けたい。
そんな思いが私にも湧き上がった。
それなのにわずか1年でお父様が辞められるなんて。
お父様は休みなく働き続け、最近はいつ見ても疲れた顔をしている。
たまに見るニュースでは、そんなお父様を批判するような意見も出て悔しい気持ちになった。
お母様は「いまは誰が総理を務めても不満の声は出ます。ここを乗り切れば長期政権も夢ではありません」と話していたので私はそれを信じていたのに……。
使用人たちも慌ただしい気配だったで私は仕方なく自室に籠もった。
着替えることもせず椅子に腰掛ける。
無意識に爪を噛みかけて、マスクの存在に気づく。
マスクを剥ぎ取ると、美しく手入れされた自分の爪をジッと見た。
少し気を取り直した私はスマホを手に取る。
ニュースはよく分からないし、不愉快な言葉が目に飛び込んでくることが多い。
友人の瞳あたりとお喋りをして気を紛らわせようと思ったが、それでこの不快感は収まるだろうか。
何気なく連絡先のリストを眺めていると「岡本真澄」の名前が見えて手を止めた。
彼女は私が生徒会長だった時に私のために何でもしてくれた。
どんな頼み事も顔色ひとつ変えずに応じたものだ。
それを思い出して私は彼女に連絡を入れた。
『はい』と抑揚のない声が返ってくる。
『ちょっといいかしら』と尋ねると、彼女は『どういったご用件ですか?』と以前のように答えた。
私はしばらく躊躇ったあと、お父様のことを彼女に伝えた。
彼女はすでに知っていたようで驚く素振りはない。
『……本当のことなの?』
『記者の前で発言したそうなので間違いはないかと』
私は全身の力が抜けるように感じた。
実は嘘だったと言ってもらえるという期待がどこかに残っていたが、真澄に言われると事実なのだと思ってしまう。
彼女に『どうにかして!』と言いたかったが、それが無理なことは私でも理解している。
『……そう』と力なく呟く。
しばらく沈黙が続いたあと、私は『これからどうなるの?』と聞いた。
足下にポッカリと穴が開き、このまま地の底まで落ちていくような気分だった。
『さあ、どうでしょう。次の総裁が誰になるか、そして秋に行われる次の総選挙で当選されるかどうか次第ではないでしょうか』
真澄はさらに詳しく教えてくれた。
与党内にも派閥争いがあり、お父様が支持する政治家が次の総裁に選ばれたらまだ党内である程度の力が保てるということ。
しかし、逆風下の総選挙で当選するのは決して簡単ではないということ。
彼女は噛み砕いて伝えたので私もだいたいのことは理解できた。
『でも、どうしてこんなことに……』
『それについては推測しかできませんから』
『それでもいいから』と催促すると、『あくまで報道が事実だとすればですが』と前置きしてから『芳場前会長のお父様では総選挙に勝てないと与党内の実力者から判断されたのでしょう。首相も続投の道を模索しているようでしたが、万策尽きたのかもしれません』と続けた。
『誰が悪いの!』
頑張っているお父様をここまで追い詰めたのは誰か。
ひと言くらい文句を言ってやらないと気が済まない。
真澄は黙り込んで答えない。
『ねえ?』
『……分かりません』
彼女はそう言って少し間を置いてから『特定の誰かというより、本人、与党や野党の政治家、メディア、国民、それぞれに原因があったと思います。……きっと特定の誰かの責任にしてはいけないんだと思います』と自分の意見を述べた。
その声には今回の件ではなく別の出来事を思い出しているような響きがあった。
私も真澄も顔を思い出すだけで不愉快になる人物がいる。
二度と見ないで済む相手なだけに、完全に忘れ去りたかった。
『思い出させないで』と抗議すると、『高階先輩をのさばらせたのは私たちの罪です』と真澄は思い詰めたような口調で私に刃を向ける。
『仕方ないでしょ。私より前の会長に気に入られていたし、どうすることもできなかったのよ!』
『そうした「仕方ない」がいまの日本の政治を形作っているような気がします』
そう捨て台詞を残して真澄は通話を切った。
それでも私はスマホに向かって「仕方ないじゃない」と口にする。
いつもなら適切に温度管理された部屋は凍えるように寒かった。
††††† 登場人物紹介 †††††
岡本真澄・・・臨玲高校2年生。美優希の下で生徒会副会長を務めていた。生徒会長選挙に立候補したが直前で辞退。現在は生徒会長補佐を務めている。製薬会社創業家の一族。
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