第145話 令和3年8月28日(土)「来ちゃった」田辺真夏
「来ちゃった」
あたしが”てへ”って感じで微笑むと、漣は幽霊でも見たかのように驚いていた。
最愛の恋人が遥か浜松から来たというのにその態度はどうだろう。
部屋まで案内してくれた彼女のお母さんが隣りにいなければ、抱き締めて背骨をへし折ってしまいそうだった。
冗談だけど。
「どうしたの、いったい……」
「わざわざ来てくれたんだから突っ立っていないで中に入ってもらいなさい」と呆然としている娘を促し、彼女のお母さんは「ゆっくりしていってね」とあたしに微笑んでくれた。
中学時代から信頼を勝ち得ていたのが功を奏したと言える。
あたしは大人受けが良いのだ。
よく「漣も真夏ちゃんを見習いなさい」なんて言われたものだ。
「お邪魔しまーす」と彼女の部屋に入る。
浜松時代とあまり変わらない女の子らしい部屋の雰囲気だ。
特徴らしい特徴がない中で、ファンシーなものからシックなものまでバラエティに富んだ便箋や封筒が机の横の棚に飾られているところが唯一の彼女らしさに感じられた。
「来るなら知らせてくれたら良かったのに」
「びっくりさせようと思ったのよ」と言ったあたしは「来られたらマズいことでもあった?」と笑顔で尋ねる。
「そんなことは……。でも、普段着のままだし、髪とかも……」
「でも、寝起きって感じじゃないよね」
「午前中に3校合同イベントのオンライン会議があったの。顔合わせみたいな感じで自己紹介をしただけだけど」
あたしはもっと早く……いや昨夜のうちに浜松を出ていれば良かったと思って舌打ちする。
驚いた顔の彼女に「漣の晴れ舞台、見てみたかったなあ。自分から委員に立候補したんでしょ? 中学の時を思えば考えられないもの」と大げさに悔しがってみせた。
「晴れ舞台ってそんなんじゃないから。みんなスゴそうでやっていけるか不安なくらいだったし……」
「漣なら大丈夫だよ」とあたしは胸を叩いて保証をする。
「そうかなあ……」と漣は納得できない顔つきだが、「あたしがついているんだから」と根拠のないアピールをしてみせた。
「真夏のそういうところは頼りになるよね」
「あたしも漣を頼りにしているよ」
「わたしなんて……」と謙遜する漣に「今日、泊まる場所がないのよ」とあたしは切り出した。
絶句する漣に「もちろん、泊めてくれるよね?」と笑顔で迫る。
彼女は「お母さんに聞いてみるけど、ダメだって言われたらどうするつもりなのよ」と眉間に皺を寄せた。
「夏だし、公園で野宿すれば平気じゃない」
漣はこれ見よがしに溜息を吐くと、「聞いてくる」と部屋を出て行った。
ひとり残されたあたしは室内を見回す。
ベッドの枕の横に無造作に置かれたスマートフォンが目に入る。
あたしはそれを手に取った。
ロックがかかっていた。
あたしは彼女の誕生日を入れてみた。
……残念。
次にあたしの誕生日を入力する。
これで外れたら中を覗き見ないつもりだったが、これでもロックは外れない。
頭を悩ませていると外に人の気配がした。
あたしはスマートフォンを元の場所に急いで戻す。
「いいって」と戻って来た漣は言うと「今回は特別だよ」と言葉を続けた。
「ありがとう。大好き、漣」とあたしは立ち上がって彼女に抱きついた。
「ダメだって。お母さん、もうすぐお菓子とか持って来そうだし」と漣があたしの身体を引き離す。
両親公認の仲になりたい気持ちはあるが、いまは仲の良い親友だと思われていた方が都合がいい。
あたしは「分かったよ」と彼女の言葉に従った。
「新幹線を使えば日帰りできるんだけどね。お小遣いが……」
「在来線で来たんだ。大変だったでしょ」
そんな会話をしているうちに彼女のお母さんがお菓子や飲み物を運んできてくれた。
あたしは宿泊を許可してもらったことに対して丁寧にお礼を言った。
少しお小言めいたことも言われたが、前もって知らせておいてくれればとも言われた。
娘が引っ越しをしなければならなかったことに親として負い目があるのだろう。
あまり頻繁にならなければ遊びに来ても許されそうだという感触をあたしは得た。
漣のお母さんが部屋から出て行くと、漣は不服そうな顔で「真夏って猫を被るのが上手いよね」と文句を言う。
あたしはネコになったつもりで彼女に甘えてみた。
顔をスリスリと擦り寄せ、「にゃーん」と鳴きながら彼女の身体に密着する。
「暑いって」と苦笑する漣にあたしは真顔で「脱ぐ?」と尋ねる。
「脱がないよ。騒いだら妹にも聞こえるから」
あたしは残念そうな顔をしてみせた。
そして、「妹さんは元気?」と質問する。
「うん。学校に慣れたかどうかは分かんないけど……」
彼女の妹はまだ小学生だ。
姉の漣よりしっかり者という評判だったが、小学生にとって転校は一大事だからすんなり受け入れられたかどうか心配するのも当然だろう。
いまはマスクをしていて顔が分かりにくいし、友だちと遊ぶのも簡単ではない。
漣のように高校入学のタイミングでの引っ越しなら影響は小さいのだが……。
「あとで挨拶をしておくよ。あたしのこと、覚えていてるかな」
「真夏のことを忘れたりはしないよ」と笑顔を見せた漣は「ありがとう」と姉の顔になった。
「挨拶と言えば、鎌倉に来た理由のひとつは漣の友だちに会いたいってのがあったんだけど」
「えっ……」
絶句する漣にあたしは爽やかな笑みを浮かべて「紹介してよ」と催促する。
漣は慌てたように「ちょっと待って」と手のひらをあたしに向けた。
手紙をよく書く割に綺麗な指だ。
彼女のその右手にあたしは自分の左手を合わせ、恋人繋ぎのように指と指の間に指を入れて絡ませた。
「まだ真夏のことを言っていなくて……」
「いまから言ってくれたらいいよ」
いままで黙っていたことを問い詰めたりはしない。
言いにくいと思ってしまうことも許してあげる。
ニコニコと微笑むあたしの前で漣は青ざめていた。
「紹介してくれるよね?」
彼女は頷くとそのまま視線を落とす。
あたしは残った右手で彼女の顎を持ち上げた。
「愛してる、漣」
††††† 登場人物紹介 †††††
田辺
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