第144話 令和3年8月27日(金)「明けない夜はない」土方なつめ
「なつめさんは命の恩人です!」
目をキラキラさせながらマイハニーこと
1日1回どころか顔を合わせるたびにそうするので、「気にしなくていいよ」と答えるのも省略しがちになってきた。
彼女が新型コロナウイルスの検査で陽性反応が出てから10日ほどが過ぎた。
高熱が続き、その後しばらくは咳もひどかったが1週間足らずで収まった。
回復してみての感想はインフルエンザのいちばん酷い時と同じくらいだったそうだ。
だが、東京の医療が逼迫していると連日報道され、もし症状が悪化しても入院できるかどうか分からない状況では不安は尽きなかったようだ。
「なつめさんがいなかったらどうなっていたことか。なつめさんの励ましがあったから良くなったんだと思っています」
「私はたいしたことはしていないよ」
「そんなことないです!」
彼女は両手を握り締め「いっぱい助けてもらいました」と力説する。
言葉以上にその可愛らしい仕草を見られたことで私は癒やされた気分になる。
「責めるのが当然なのにあんなに親身にしてくれて……。本当に嬉しかったんです。なつめさんのためならなんでもしますから!」
「マイハニーが悪い訳じゃないから責めたりしないよ」と何度も伝えたがいまだに罪悪感を持っているようだ。
私も自主的に検査を行い陽性反応が出た。
幸いワクチン接種の効果かほぼ無症状のまま今日に至る。
パラリンピックのスタッフとして働くことは叶わなかったが、テレワークに関しては支障がなかった。
買い物がオンラインのみになったり、私が働いているNPO法人のスタッフに助けてもらったりはしたが、普段とさほど変わりなく過ごすことができた。
だからマイハニーが気に病むことはないのだ。
「友だちが病気になったら助けようとするのは当たり前だし、いまはマイハニーが元気になってくれたことがいちばん嬉しいよ」
「なつめさんは良い人過ぎますよ」
私は自分の後頭部に手を当てる。
良い人と言うならマイハニーだってそうだ。
知り合ってから毎日のように朝食を作りに来てくれるし、いまも私の部屋のキッチンに立っていた。
ズボラな私はコンビニ弁当など出来合いのもので済まそうとしてしまうが、彼女のお蔭で彩りに満ちた食生活を送ることができている。
「マイハニーの手料理が食べられるだけで幸せだから」
私がそう言うとエプロン姿の彼女は新婚さんのようにはにかんだ笑顔を見せた。
それだけでご飯が三杯くらい食べられそうだ。
「でも、料理はひとり分もふたり分もあまり手間は変わらないですからね。恩返しのうちに入りません」
そんなことはないと思うが、そう言っても納得してもらえない。
人間、借りがあると思うと心に負担があるそうだ。
ここは彼女の”お返し”を受け止めた方がいいのかもしれない。
買い物に行こうという話はしているが、まだ治ったばかりだし、もう少し都内の感染状況が落ち着いてからにしたいと思っている。
できれば彼女がワクチン接種をしてからが理想だが、それだとかなり先になってしまう。
「マイハニーのワクチン接種が終わったら買い物とは別に旅行か何かするのもいいかな」
かなり小声で口に出しただけなのに彼女の耳に届いたようだ。
満面の笑みを浮かべて「なつめさんの実家に行ってみたいです!」と言い出した。
「本当に田舎で、何もないところだよ」
「それだけ自然が豊富ってことですよね。それに、なつめさんのご両親にご挨拶もしておきたいですし……」
後半は顔を伏せ早口になっていたので聞き取りづらかった。
両親もワクチンは済んだようだし、人混みとは無縁の場所なので旅行先としてはありかもしれない。
朝食の準備を終えると彼女は私の対面に座り、スマートフォンを取り出した。
そして、「大学の職域接種を打っとけば良かった」と呟きながら画面を睨んでいる。
「あ、渋谷で予約なしのワクチン接種があるんですって」
「ちょっと待って。感染したあとすぐはダメじゃなかったっけ?」
「えー」とマイハニーは唇を尖らせる。
ついこの前まで「コロナはただの風邪」と言っていたので現金な人のようにも見えるが、私の目には微笑ましく映る。
あの頃はどう説得したらいいかと心苦しく感じていた。
何を言っても言葉は彼女に届きそうになかった。
それに比べるとこのくらいなんてことないだろう。
「冬、お正月には帰る予定だからその時に一緒に行こうか。でも、マイハニーも帰省しなきゃいけないか」
「こちらは新幹線でパッと行ける距離ですし……、今回の件で高校の友人とは顔を合わせにくいかなって……」
彼女が感染したのはお盆の帰省中に友人たちと飲み会を行ったからだそうだ。
その参加者の多くに陽性反応が出たようだ。
当事者は全員軽症で済んだが、中には家庭内感染に広がったケースもあったみたいで、参加しなかった知り合いから非難の声が上がったらしい。
「高校時代に仲が良かったのは真面目な子が多かったので、『見そこなった』なんて言われてショックでした。そう言われても仕方ないですよね……」
そんなこともあって帰省の多い時期をずらして帰るつもりだと彼女は言った。
それなら断る理由はない。
「冬は雪しか見るものがないけど、それで良ければ」
「ありがとうございます!」
マイハニーが楽しそうなので私まで楽しい気分になる。
大学の後期の授業が始まれば、またすれ違うこともあるだろう。
住む世界が違うと感じることもあるはずだ。
しかし、同じ世界で同じ価値観に染まっていなくてもこうして楽しく過ごすことはできる。
それを知ることができて私は少しだけ成長した。
これからも成長しながら壁を乗り越えたい。
彼女と一緒ならきっとできると思うから。
††††† 登場人物紹介 †††††
土方なつめ・・・高卒、社会人1年目。東京のNPO法人F-SASに就職した。現在の業務はオンライン相談の対応なのでテレワークが基本。
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