第141話 令和3年8月24日(火)「本番前」日々木陽稲

 母が死んだ。

 革命の火の手が上がる中、身重だった母は必死にこの日本まで逃れてきた。

 ほかの亡命者たちが日本を経由して欧米に向かう一方、母はこの地でわたしを産んだ。

 わたしを連れて欧米に行くことも考えたらしいが、この地で暮らすことを彼女は選択した。

 日本人の支援者の存在が大きかったようだ。

 そのひとり、臨玲高校理事長が母をフランス語の講師として招いた。


 やがて、わたしもこの高校に入学する。

 学友たちと過ごす平穏な日々。

 学校の外では戦争の足音が近づくなど不穏な情勢だったが、ここは別世界のように感じていた。

 だが、母の突然の逝去で何もかも変わってしまう。


 身寄りをなくしたわたしはどう生きていけばいいか分からなかった。

 ロシア人の亡命貴族なんてもの珍しさ以外に何の価値もない。

 母が遺した蓄えは多少あるものの、これまでのような暮らしぶりは望むべくもない。

 そんなわたしを支えてくれたのが友や恩師だった。

 彼女たちは手を尽くしてわたしの婚約者になってくれる人物を探し出したのだ。


 大学を優秀な成績で卒業したばかりの彼は東京の大手企業に就職した。

 そこで経験を積み、将来は兄の事業を手伝う予定だと聞いていた。

 北海道を拠点に貿易業を営んでいるということで、ロシア語が話せるわたしに白羽の矢が立ったらしい。

 会ったことはなかったが、その誠実そうな顔を写真で見てわたしは安心することができた。

 この人となら、と。


 だが、またしても不幸がわたしを襲った。

 わたしが卒業する前に彼が流行病で亡くなったのだ。

 結婚を前に病をおして無理をしたようだ。


 自分は呪われているのではないか。

 幸せになる価値などないのではないか。

 そんな思いでわたしは卒業パーティーに臨んだ。

 まるで喪服のような黒のドレスを身に纏って。


『……という設定は考えなくていいから』


 紫苑にそう言われてわたしは目を丸くする。

 わたしは生徒会が制作する短編映画に主演する。

 秋の臨玲祭で発表するものだ。

 その映画はわたしの曾祖母をモデルにしている。

 この設定も実際の出来事が下敷きになっていた。


『えー』と画面に向かって唇を尖らせる。


 この会話は一週間ほど前にビデオチャットで交わされた。

 監督役の紫苑はどんな映画にするかかなり時間を掛けて練っていたようだが、ようやく構想が決まったとわたしに連絡をくれたのだ。

 現実にはなかった卒業パーティーを描くことにしたと彼女は告げた。


『セリフはないんだよね?』と確認すると紫苑は頷く。


 彼女が監督として求める演技力を身につけるには1年は掛かるそうだ。

 役者を目指す訳でもないわたしにそんな苛酷な練習を強いることもないと、当初から会話シーンは彼女のナレーションで処理すると決まっていた。


『となると、見せ場は舞台設定や衣装だよね?』


 紫苑がわたしにダンスの伎倆を期待するなんてあり得ない。

 社交ダンスの授業でわたしの実力はよく知っているのだから。

 そうなると消去法でそれが残る。

 わたしも映画における美術や服飾については一家言があるほど興味を持っているので、こうして食いついたのだ。


『役者が大根なんだから監督の腕を見せるのはそこしかないでしょう?』


『戦前の、まだ上流階級に華やかな文化が残っていた頃の輝きを表現したいの』


『……分かった。陽稲も会議に参加して』


 こうしてわたしはヒロイン役としてよりもファッションや舞台設定担当として映画に協力することになった。

 どんな映画にするかイメージを固めるまでは時間を要したが、そこからは以上に速いペースで準備が調っていく。

 紫苑が所属する大手芸能事務所がプロの力を見せつけた。

 わたしも流れについていくのがギリギリの状況だった。


 衣装集めでは臨玲のメリットが生きた。

 伝統のあるお嬢様学校の底力と言えるかもしれない。


「演劇部が衣装を提供してくれるんだって」


 可恋を通じてそんな連絡が入った。

 演劇部は戦前から続く歴史あるクラブであり、OGから寄贈された衣装は大切に扱われてきたそうだ。

 最近細川さんという部員の手によってデータベース化もされたそうで、その利用を許可してもらった。


 こうして土曜日のリハーサル前に衣装合わせをすることができた。

 さらに月曜日の撮影本番に向けてスタイリストの人たちとともにわたしは準備を急いだ。

 かなりバラエティに富んだドレスが集まり、見栄えのするものになったと思う。


 そして、撮影当日。

 わたしは職人芸と言えるようなレースに飾られた黒のドレスを着て旧館の大広間にいた。


「緊張してる?」


「……少し」


 男装した可恋に問われ、わたしは硬い表情で頷く。

 可恋と知り合うまではこうした本番にわたしは極端に弱かった。

 学芸会、ピアノの発表会、入学試験など、失敗してはいけないという気持ちが強く働く場面で何もできなくなってしまう。


 可恋の助けを得てそれを克服したと思っていた。

 実際にファッションショーなどではあがらずに舞台に立てたし、試験でも実力を発揮できるようになった。

 それがまたぶり返したのだとしたら……。


「別に緊張したっていいわよ」と言ったのは紫苑だ。


「編集でどうとでもできるから」


 紫苑は一貫して素人の芝居には期待していない。

 それを見せるレベルに引き上げるのが監督の腕くらいに思っているようだ。


 可恋は上体を折り曲げてわたしと視線の高さを合わせると、目を見て「ひぃな」と呼んだ。

 可恋が演じるわたしの祖父”じぃじ”の父親は、本当であればこの時点で30歳過ぎのおじさんだった。

 当初、可恋はもう少し老けたメイクをした方がいいんじゃないかと指摘したが、わたしと紫苑がそれを却下した。

 渋い可恋も見てみたいが、やはり格好いい可恋を見たいという意見で一致したからだ。


「この映画は私たちの映画だよ。ファッション協力のクレジットも入れるから、ひぃな自身の映画でもある」


 普通なら気楽にとかリラックスしてとか言いそうなものなのに、今日の可恋はわたしに責任を感じさせようとしているようだ。

 可恋は「いまは紫苑の映画って思われるだけだろう。でも、将来はひぃなが初めて参加した映画として歴史に刻まれるかもしれない」と言葉を続ける。


「プレッシャー、かけ過ぎなんじゃないの」と紫苑が口を挟んだが、わたしは静かに首を横に振る。


 いままで失敗したケースは本気度が足りていなかった。

 どこか他人事のように感じていた。

 周りに望まれて学芸会でヒロインを演じたりピアノの発表会に出場したりしたが、自分から望んでのことではなかった。

 だから、かえって失敗を恐れた。

 中学受験だって絶対に受かりたいという思いが足りていなかった。

 通常の試験も危機感がなく、そのうちなんとかなるという態度だった。


 それに比べてファッションショーはわたしが心の底から望んだものであり、絶対に成功させなければならないものだった。

 覚悟が違う。

 試験のことも可恋の前で無様な結果は出せないと気合の入り方が違った。


 たぶん、この映画に対しても一歩引いて見ていたのだろう。

 わたしはヒロインだけど、注目を集めるのは監督の紫苑だ。

 紫苑の映画だから失敗しちゃいけない。

 そんな中途半端な気持ちが緊張に繋がっているのだとしたら。


「ひぃなはやればできる子だよね」と可恋が微笑む。


 この信頼に応えない訳にはいかない。

 そうだ。

 これはわたしの映画だ。

 わたしのルーツの話であり、わたしが形にしたこの広間の装飾や全員のドレスが主役なのだ。

 胸を張って見てもらえるようなものが準備できたのだから、あとは自信を持って自分のやるべきことをすればいい。


「もう大丈夫。最高のダンスをしようね、可恋」


 そう語るわたしの顔を見て紫苑が「パーティーの最初からその顔はマズいね。あとで撮り直して差し替えなきゃ」と呟いていた。

 彼女には悪いが、いまのわたしには可恋と踊れる喜びしかない。

 もうそれだけ撮ってくれれば十分じゃない?




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木陽稲・・・臨玲高校1年生。生徒会副会長。曾祖母の容姿を引き継いだ美少女。ファッションデザイナーを目指して鋭意努力中。


初瀬紫苑・・・臨玲高校1年生。当代きっての若手人気映画女優。学園祭の一イベントのはずが、これを宣伝に使いたい生徒会と所属事務所の思惑が一致し、より良い映画を撮りたい紫苑もそれに乗ったことで非常に大掛かりなものとなった。


日野可恋・・・臨玲高校1年生。生徒会長。体調は芳しくないが、一緒に暮らす陽稲以外には気づかせない振る舞いは見せられる。

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