第139話 令和3年8月22日(日)「全中」保科美空
終わってみると呆気ない気がする。
ふわふわした感じで試合に入り、何もできないうちに敗北を喫した。
金曜日から山口県で開催されている全中、全国中学生空手道選手権大会。
女子個人組み手で出場したあたしは昨日すいすいと勝ち上がり今日の準々決勝まで駒を進めた。
出来過ぎという気持ち。
ひょっとしたらという欲。
それを平常心でねじ伏せようとしているうちに一夜が過ぎた。
繊細って訳じゃないので眠れなかったということはない。
朝も十分に気合を入れたはずだった。
試合場を下りる。
悔しさはない。
単に何も考えられない状態だ。
周りの選手やスタッフは敗者のことなど気にも留めずに進行を進めている。
あたしは淡々と歩いて行く。
そして、あたしを待つ三谷先生の顔が目に入ってきた瞬間に感情が溢れた。
「す、すいません……」
涙が零れる。
号泣ではないが、涙が止まらない。
なんで涙が湧いてくるのか自分でも分からなかった。
「謝らなくていいから」と先生は笑みを浮かべ優しい声で慰めてくれる。
「もっとしっかり戦えたはずなのに……」
そう自分で口にしたら後悔の念が押し寄せて来た。
さっきの試合は全然ダメだった。
自分の力を出し切ることができなかった。
勝てたかどうかは分からないが、もっと良い勝負ができたんじゃないか。
あたしは試合場の方に振り向く。
そこでは次の試合が行われていた。
もうあたしが立てなくなった場所が、いまになってとても輝いているように見えた。
「なんで……、なんで……」
拳を握り締め、やり場のない怒りに唇を噛む。
あれだけ頑張ってきたのに。
日々の稽古、特に夏休みに入ってからは連日徹底的に鍛え上げた。
みんなも応援してくれた。
道場の仲間だけではなく、はじめさんからも昨日熱の籠もったメールをもらった。
それが自分のふがいなさで負けてしまった。
期待に応えられなかった。
せめて全力で戦えていたら……。
「メンタルの強さも実力のうちだからね」と三谷先生があたしの肩を叩く。
昨日の女子個人形では
彼女は先の東京オリンピックで銀メダルを獲得した神瀬舞さんの妹だ。
勝って当然という強烈なプレッシャーがあったはずなのに、彼女は自信に満ちた表情で一分の隙もなく勝ち進んだ。
そして決勝戦でも圧倒的な演武をやってみせた。
結さんとは面識があったので優勝後に祝福の言葉を掛けに行ったら、あたしの勝ち上がりを知っていて逆に頑張ってと励まされた。
先生に促されて更衣室に向かう。
こんなところだっけ。
昨日と同じ会場なのに、負けたあとは別の世界に紛れ込んだように感じてしまう。
しかし、ロッカーにはあたしの着替えや鞄がちゃんとあった。
あたしはそろりそろりと着替え始める。
なぜか身体が自分のものではないように重く鈍い。
やっとの思いで空手着を脱ぎ、それを手に取ってじっと見つめた。
頭では分かっている。
あたしは中学2年生だからまだ来年もあるということを。
これからも空手を続ける気でいるのだから、今日で何かが終わった訳ではない。
気持ちを切り換えなきゃいけないと分かってはいるのだ。
だが、簡単にできることではなかった。
ここまで大きな大会に出場したのは初めてだった。
準々決勝まで勝ち上がり自分の中でも期待が大きくなっていた。
こんなことは最初で最後かもしれないと思うほどに。
また、こんな負け方をしたことも記憶になかった。
だからこの敗戦をどう受け止めたらいいのか困惑していた。
さらに時間が経つにつれて、ああすればよかったという試合の反省もどんどんと頭に浮かび始めた。
相手の攻撃をこうやって受け止めていればとか、あの時の体勢に改善の余地があったとか、本当にいくらでも出て来る。
それがあたしの心をかき乱した。
……誰か、助けて。
それは甘えだろう。
敗北を受け止めることは武道の基本だ。
他人に助けを求めてはいけないと知ってはいても、この苦しみから解放されたいという思いを容易には振り払えない。
……はじめさん。
信頼する人の顔が浮かんだ時、鞄の中のスマートフォンが振動した。
ドキッとする。
出てはダメだと思いながら、誰からかを確認するためにスマートフォンを手に取った。
まだ誰かと話せる気分ではない。
一方で、はじめさんだったらどうしようという迷いもあった。
『Cathy』
画面にはそう表示されていた。
意外な相手に思わず通話に出てしまう。
こちらがハローと言うよりは早く、彼女は英語でまくし立てた。
もちろん何を言っているのかはサッパリ分からない。
『もっとゆっくり話してください』と片言の英語で伝えると、ようやく聞き取れるレベルの英語になる。
どうやら大会を見学に行きたかったとか、自分も出たいとか言っているようだ。
彼女は7月に一度アメリカに帰国し、今月上旬に日本に戻ってきたと聞いている。
その後、自宅での自主隔離が続きかなりストレスを溜めているようだと三谷先生が話していた。
あたしが道場に戻った頃に彼女も隔離が終わり道場に姿を見せるだろうと聞いている。
大会が今日で終わることを告げると、彼女はあたしと結さんの結果を教えるようにせがんだ。
結さんの優勝と、あたしが準々決勝で負けたことを伝える。
英語で話すことに精一杯だったせいか、感情的にならずに済んだ。
『ミク、凄いな! ワタシの次の次の次の次の次の次くらいに強いんじゃないか』
キャシーさんのポジティブな物言いにこちらまで明るい気分になる。
それでもあたしは『でも、負けました。ベストを出せずに』と口に出してしまう。
『気にするな。今度勝てばいい』
『全中は1年後ですよ』と言っても『1年もあればもっと強くなれるぞ!』とキャシーさんは意に介さない。
そして、『早く帰ってこい。ワタシと戦おう! 夏の間にどれだけ強くなったか楽しみだぞ』とやる気に満ちた声を出した。
あたしには自分の悩みを説明するだけの語学力がないし、キャシーさんに言ったところで笑い飛ばされるだけのような気がする。
結局、シンプルに『はい、戦いましょう』とだけ答えた。
あたしは電話を終えると途中だった着替えを再開した。
頭の中や心の中にある様々な思いや感情は忘れずに記憶に刻み込もう。
時間が掛かってもひとつひとつ向き合い、自分なりの答えを見つけたい。
それはそれとして、キャシーさんに自分の成長を見てもらいたいという気持ちも湧き上がっていた。
更衣室を出ると三谷先生が待っていてくれた。
あたしは「お待たせしました」と頭を下げ、駆け寄る。
「キャシーさんから電話が来ました。あたしが戻ったら戦おうって。どうすればキャシーさんに勝てるでしょうか?」
これまで2歳上で体格差が大人と子どもほども違うキャシーさんに勝てると思ったことはない。
稽古では胸を借りるだけだった。
でも、それじゃあきっとダメだ。
キャシーさんやはじめさんにも勝つ気で挑まないと。
三谷先生は一瞬驚いた顔をしたあと、笑顔になった。
「そうね。美空ちゃんの方が空手の経験は豊富なのだから、伝統派空手の奥深さをキャシーの身体に叩き込んであげましょうか」
††††† 登場人物紹介 †††††
保科
三谷早紀子・・・空手道場師範代。女子選手の指導に定評がある。面倒見が良く、英語も堪能。
キャシー・フランクリン・・・G8、16歳。令和元年の夏に来日し、空手を学んでいる。180 cmを優に超える長身の黒人少女。レスリングの経験もあり、格闘技のセンスは抜群。頑なに日本語を覚えようとしないが、最近は道場の中高生相手に分かりやすい英語を話すことを覚えた。
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