第137話 令和3年8月20日(金)「最優先事項」日々木陽稲
「やった! やった! やったー!」
わたしは祈るように固く握り締めていた両手を顔に近づけ涙ぐみながら画面を見つめていた。
テレビ画面にはプールの水面から頭を出し、電光掲示板を見つめる純ちゃんの姿が映し出された。
隣りのレーンの選手から祝福の言葉を掛けられたのか、そちらに頷いて答えている。
その光景をわたしは目に焼き付けようと前のめりになった。
それが一昨日、昨日と繰り返された。
インターハイ――全国高等学校総合体育大会――で幼なじみの純ちゃんが優勝を遂げたのだ。
彼女はその恵まれた体格から競泳界のホープとして期待されていた。
しかし、中学時代はやや伸び悩んだ。
大きな大会で勝利という結果を残せなかった。
さらにコロナ禍が追い討ちをかけた。
大会は次々と中止となり、特待生としての高校進学は難しくなった。
このままでは競泳を続けることさえできなくなりそうだった。
純ちゃんは子どもの頃から目立つわたしの側にいて守ってくれた。
わたしは非力でひ弱だったので、どれだけ彼女に助けられたか分からない。
そんな彼女の夢が潰えるようなことになれば、どれほど嘆き悲しんだだろう。
その窮地を救ったのは可恋だ。
臨玲高校理事長と掛け合って、改革に協力する代わりに純ちゃんの特待生入学を認めてもらった。
可恋はわたしの護衛役として純ちゃんほど適任はいないからだと話していたが、もちろんそれだけが理由ではない。
競泳部を新設したり、新館に豪華なトレーニングを設置したりと環境もしっかり整備してくれた。
プールの中では力強く生き生きとしていた純ちゃんは、水から上がるといつもの姿に戻る。
無口で、興味がないことには我関せずを決め込む。
画面の中でも優勝して注目を浴びることを煩わしそうにしていた。
メディアの人もリモートで彼女からコメントを引き出そうとしたが、その試みは徒労に終わる。
表情すら勝っても負けても変わらないのだから取材も大変そうだ。
わたしからの電話では、わたしや周りの人たちが「喜ぶのは嬉しい」とだけ答えてくれた。
あとはわたしからの質問に「うん」と「……」で答えるという相変わらずの会話となった。
優勝した喜びよりもタイムに満足し、さらに良い記録を出したいと望んでいるようだ。
メディア対応を学んだ方が良いのかもしれないが、学んでもうまくできるようになる未来が想像できない。
いまはそれに時間を割くより練習に打ち込ませてあげたいと思う。
わたしが現地に行っていたところでそういうフォローはできなかっただろう。
それでも応援に行きたかったという気持ちは強かった。
テレビ画面ではなく直接この目で彼女の勇姿を見たかった。
だが、新型コロナウイルスのデルタ株が猛威を振るういま、その望みは果たせない。
そして、もうひとつここを離れられない心配事があった。
可恋の体調だ。
夏休みは1ヶ月を経過し、もうすぐ2学期が始まろうとしている。
それなのに可恋の調子は一向に改善されないままだった。
彼女と出会ってから夏場は元気というイメージだったのに、この夏は不調な状態が長引いている。
本人は入院が必要なほどではないから心配いらないと話すが、目を離すことができないとわたしは思うようになった。
「仕事も大事だけど、休憩はもっと大事だよ」
可恋は1日中リビングのソファに腰掛けているが、その大半の時間はノートパソコンの画面と向き合っている。
彼女が代表を務めるNPO法人は夏休み中に非常に多忙になるそうだ。
純ちゃんが活躍したインターハイなど中高生の全国大会が集中的に開催される時期だから、そこに出場する選手のサポートを目的としたNPOが忙しくなるのは当然と言えた。
そのせいで体調不良のまま可恋は仕事から離れられないでいる。
限られた時間の話だし、好きでやっていることと分かっていても、もっとちゃんと休んで欲しいという気持ちは拭えなかった。
可恋は顔を上げると「もうこんな時間か」と呟き、「そうだね」とわたしに微笑みかけた。
わたしは席を立ってお茶を淹れに行く。
以前は可恋の役割だったが、この夏休み中はわたしの仕事となっている。
「映画の撮影、延期してもらった方が良いよね?」
紅茶を淹れて戻って来たわたしは可恋に確認する。
秋の臨玲祭で生徒会として短編映画を公開する。
紫苑が監督で主演はわたしだ。
パーティーでのダンスシーンがメインになると聞いているのでこの夏休み中は可恋とダンスの練習を続けている。
この週末から週明けにかけて一気に撮影すると聞いているので、衣装などの準備は完璧に調っている。
「ダンスを踊るくらいなら大丈夫だよ」
「でも……」
確かにダンスを踊るだけなら問題はないと思う。
しかし、いまは休養に充てるべきではないか。
そんなわたしの気持ちを酌み取るように、「気分転換と思えばいいんじゃない」と可恋は言った。
「引き籠もり大好きな可恋の口からそんな言葉が飛び出すなんて……」
「どうせ踊らなきゃいけないんなら、学校が始まってからよりはいまの方が良いって判断だよ」
「無理してない?」と問うと、「1学期は少し無理をしたけど、もうしないよ」と優しい目をわたしに向けた。
「仕事の量をもう少し減らした方が良くない?」とわたしは調子に乗って畳み掛ける。
可恋は少し目が泳いだあと「前向きに検討する」と答えた。
まったく考慮する気のない彼女にわたしは頬を膨らませて抗議する。
可恋は困った顔で右手を伸ばした。
わたしが対面の席から彼女の右隣りに移ると、その右手はわたしの肩に回された。
彼女は自分の身体を誰よりも精確に管理しながらたくさんあるやりたいことに情熱を傾けている。
わたしはそれを誰よりも理解しているつもりだ。
彼女が大丈夫だと判断していることに異議を唱えるのはわたしの我がままでしかない。
それが分かっていても心配になってしまう気持ちは止められなかった。
「可恋、ごめん……」
わたしは彼女の胸元に顔をうずめて謝った。
可恋が「ひぃなが謝ることじゃないよ」と囁く声はとても切ない。
どれだけわたしが可恋の役に立つようになっても彼女のやりたいことすべてを肩代わりできる訳ではない。
彼女がわたしの夢のサポートをしてくれるように、わたしも可恋のやりたいことをあくまでサポートするだけだ。
それが望む姿だと理解していても割り切る強さをわたしは持っていない。
「私はひぃなの優しさに助けられている。感情は合理的なことが正しいとは限らないから」
可恋らしい物言いを耳にしながらわたしは彼女の温もりに包まれる。
いまのわたしができることは彼女の側にいることだ。
「安心するから可恋もわたしの胸に顔をうずめてくれていいのよ」
わたしがそう言うと、可恋はわたしを引き剥がし、本当にわたしの胸に顔をうずめた。
可恋の頭をわたしは大切に両手で包み込んだ。
赤子を抱く母親の気持ちってこんなだろうかと思いながら「どう?」と尋ねる。
彼女は顔を離すと無言でわたしを抱き上げ、自分の部屋に連れて行く。
そして大きなベッドにわたしを横たえた。
何が起きるのかと期待に満ちた顔で待っていると、わたしとは頭と足の向きを逆にして彼女も仰向けに横になった。
そのままわたしをうつ伏せにして軽々と持ち上げると、わたしの頭が自分の胸のところに来るように降ろした。
わたしの胸からお腹の下あたりに可恋の顔がある。
「こうしたらふたりとも胸に顔をうずめられるね」
「それはどうかと……」
「えー、そうかなあ」と納得しない可恋だが、これは違うよね。
††††† 登場人物紹介 †††††
日々木陽稲・・・臨玲高校1年生。生徒会副会長。ロシア系の血を引き日本人離れをした容姿を持つ。ひとりで外出しないように言われて育ち、純ちゃんにはいつもお世話になっていた。
安藤純・・・臨玲高校1年生。競泳部所属だが中学時代から通うスイミングクラブで指導を受けている。陽稲とは逆に筋肉がつきやすい体質の持ち主。
日野可恋・・・臨玲高校1年生。生徒会長。NPO法人の運営、プライベートカンパニーの起業、トレーニング理論の研究、空手の稽古、投資など学外の活動も多岐にわたる。一方で、生まれつき免疫系の障害を持ち医師から二十歳まで生きられないと言われたこともある。
初瀬紫苑・・・臨玲高校1年生。生徒会広報。著名な映画女優であり同世代から高い支持を得ている。臨玲祭では短編映画の監督を務める。
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