第134話 令和3年8月17日(火)「コロナ禍の青春」土方なつめ
どんよりとした曇り空で、気持ちの良い朝という気配ではなかった。
だが、私の気分はかなりハイテンションだ。
昨日、私の隣人でありマイハニーと呼んでいる
彼女とは気まずい雰囲気になりかけていた。
それが数日離れていたことでリセットできたかもしれない。
昨夜はふたりで食事をした。
彼女は上機嫌で、帰省中の出来事やまだかなり残っている大学の夏休み中にやりたいことを話してくれた。
今日も朝一緒に食べようということになり、私は足取り軽くジョギングに出掛けた。
私が務めるNPO法人代表のお友だちに愚痴を聞いてもらえたことも大きかったかなと思いながら部屋に戻るとスマートフォンに着信があった。
発信者は「マイハニー」。
急いで出ると、かすれた声で『熱が……熱があるんです』と聞こえてくる。
その助けを求めるような声に、私は一度息を呑んだあと『すぐに行く』と返答した。
『ダメです。これが……だったら、移してしまうかもしれませんし……』
消え入るような声だ。
私は『もう私も濃厚接触者だからね』と言ってから、『ワクチン接種2回終えて2週間経ったところだから、きっと大丈夫だよ』と安心させた。
私と藤間さんはこの春に上京した。
社会人と大学生、立場は違えど周りに知り合いが少ない中で緊急事態宣言という困難を手を取り合って乗り越えた。
お互いにとって東京でできた初めての友であり仲間であり大切な人だった。
私も新型コロナウイルスは怖い。
仕事にも影響が出るだろう。
でも、いまはそんなことは言っていられない。
とりあえずマスクを二重に着け、スキー用のゴーグルも装着する。
消毒液を腰にぶら下げて彼女の部屋に向かう。
チャイムを鳴らすとすぐにドアが開いた。
マイハニーは女子力が高く、私と会う時でさえ身だしなみに気を使う人なのに、いまはさすがにそんな余裕がないのだろう。
髪は乱れたまま、パジャマも着崩れたままだ。
私が来たのでマスクを着けているが、不安に揺れる目が頼りなさげで抱き締めて安心させてあげたいと思ったほどだ。
一方で彼女の部屋に入る時にも躊躇う気持ちがあった。
目に見えないものへの恐怖は本能的なのかもしれない。
私はそれを悟られないように堂々とした態度で足を踏み入れた。
「熱は? ほかにも症状はある?」
彼女にはベッドに入ってもらい、私は部屋の換気を行う。
いつもより気怠げな様子の彼女は「……38度2分でした。咳はないんですが、身体が重い感じです。あと頭も痛くて……」とポツポツと答えた。
これだけなら熱中症も疑わしいが、昨夜の気温から考えるとその線は薄い。
それでも「まだコロナだと決まった訳じゃないから」と私は元気づけた。
しかし、その言葉を出したことに彼女は涙ぐんだ。
私は「ごめん」と謝り、食欲の有無を確認する。
彼女は無言で首を横に振った。
自分の部屋から持ち込んだスポーツドリンクを飲んでもらい、少し落ち着いたところで東京都の発熱相談センターに連絡するように指示した。
私が所属するNPO法人F-SASは女子学生アスリートの支援を目的として設立された。
コロナ禍でイベント等の開催が見送られる中、柱となっているのが会員の相談への対応だ。
競技のこともあれば私生活についての相談もある。
その中で新型コロナウイルスに対しての相談も少なくなかった。
自分が感染したんじゃないかといったものや、感染したあとの不安。
別の病気だったのにコロナだという噂が流れたなんて悩みも届いた。
重症化への心配よりもその後の人間関係の変化に対する心配が目立っていたが、こうした相談に対応するためのマニュアルは頭に入っている。
とはいえ、安全な場所からオンラインで相談に乗ることとリアルで身近な人が感染したかもしれないという状況では気持ちがまったく異なる。
マイハニーを安心させるために落ち着いて見せてはいたが、実際はどうしたらいいだろうと頭の中がパニック寸前だった。
彼女が発熱外来の予約を取る横で、私はF-SAS代表に現状をメールで報告する。
病院の予約は取れたものの歩いて行くにはかなりの距離があった。
車があれば……という考えが頭を過ぎるが、無いものは仕方がない。
東京は家賃が高い。
これに駐車場代や維持費を含めると私の手取りではかなり厳しい。
マイハニーが昨夜運転免許を取るために教習所に通いたいと話していたのでシェアをすればとも思うが、陽性となれば夏休み中に始めるのは無理だろう。
「私も付き添うからその準備をしてくるね」と声を掛ける。
スマートフォンを握り締めたまま彼女は「ごめんなさい」と謝った。
私は見えているかどうか分からないが笑顔を作り、「早く良くなってお返ししてくれたらいいから」と応じる。
彼女は弱々しいながらもハッキリした声で「はい」と答えた。
自分の部屋に戻りかけた私はひとつ気になったことを口にする。
それは彼女の指先に綺麗に彩られたネイルを見て気づいたことだった。
「陽性になったらネイルは外さないと」
ネイルがあると酸素飽和度を測るパルスオキシメーターを利用できない。
だから軽い気持ちでそう指摘しただけだった。
だが、彼女は大きなショックを受けたような顔で私を見上げた。
「帰省したのって高校時代のクラスメイトたちを見返すためなんです」
彼女の高校生の頃の話は何度も聞いた。
大学受験のために勉強に明け暮れていたこと。
そのせいでクラスメイトたちから色々言われたこと。
晴れて東京の超有名私大に現役で合格し、そういった人たちを見返したいと思う気持ちは理解できなくもない。
「このジェルネイル、奮発したんですよ……」と彼女は自分の爪をかざした。
「でも、その時の食事会で感染したかもしれないです。馬鹿ですよね。きっと罰が当たったんですよ」
「運が悪かったんだよ」
女子大生になって青春を謳歌しようとした矢先に緊急事態宣言が出たり、まだ確定ではないが新型コロナウイルスに感染したりと彼女はこの感染症に振り回されている。
いや彼女だけではない。
私たち若者は大切な時間を奪われている。
こんなことを言ったら大人もそうだと言われるかもしれないが、輝きに満ちた青春時代は貴重だと散々言ったのは大人たちではないか。
「治ったらいっぱいオシャレしよう」と慰める。
新型コロナウイルスを軽視していた彼女に苛立つこともあった。
知らない人から見れば自業自得なのかもしれない。
しかし、18歳の夏は一度きりだ。
オリンピック選手だけでなくすべての人の輝く機会を奪わないで欲しい。
「なつめさんも一緒にオシャレしてくれますか?」
何を言い出すんだと驚いて見返すが、彼女は縋るような目をしている。
私がオシャレをしたってと思うものの、いまは彼女を励ますことが最優先だ。
「私で良ければ」
「約束ですよ」
そう言った彼女の声にほんの少し元気の成分が含まれているようで、私は笑みを浮かべて「うん」と頷いた。
††††† 登場人物紹介 †††††
土方なつめ・・・高卒社会人1年目。NPO法人F-SAS職員。東京パラリンピックでは現場スタッフとして働く予定もあったが……。
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