第132話 令和3年8月15日(日)「母」吉田ゆかり
朝から降り続いた激しい雨も午後3時を過ぎると小降りになった。
土砂降りの中、出発することも覚悟していた。
そうならずに済んだことに感謝しながら私は母が眠る墓に手を合わせる。
母が亡くなったのは私が4歳の時だ。
それ以降、毎年お盆とお彼岸には必ず墓参している。
優しかった母の記憶は辛うじて残っているが、時間とともに薄れていきそうで怖い。
思い出を刻み込むため、そして母に私の成長を報告するためにここに来ているのだ。
湿り気を帯びた空気と冷たい風のせいで8月とは思えない寒さを感じる。
黒い雲に覆われ夕方前なのに辺りはどんよりと暗い。
ほかにも墓参の家族連れの姿を見掛けるものの、ひとりきりだともの悲しさに震えてしまいそうだ。
母が見守ってくれると無邪気に信じられるほど私は子どもではない。
「ゆかり様、そろそろ」とついて来てくれた祖母の秘書役の日吉さんが声を掛けてきた。
私は振り返り「はい」と頷く。
彼女は父よりも歳上で、長く祖母の側にいる人だ。
家長である父も彼女には相当気を遣っている。
私は墓石に向き直り、「また秋に来ます」と告げる。
その時にはもう少し良い知らせを持って来られたらと祈りつつ。
上着を羽織り傘を差して、日吉さんと並んで歩き出す。
雨は気になるほどではないが、いまの顔を人目にさらしたくなかった。
臨玲高校に入学してからはここに来るたびに後悔の念が湧く。
胸を張って母に話すことができないでいた。
次こそはと思いながら時を重ね、秋は高校生活最後の墓参となる。
私は意気揚々と祖母が理事を務めるこのお嬢様学校に入学した。
官房長官の娘である芳場さんに注目が集まっていたが、私は有力者の集う茶道部に次期部長候補として入部した。
人気が低迷していた臨玲を自分の力で立て直してみせると心に秘めて。
だが、
彼女は芳場さんに取り入り生徒会に近づくと巧妙に権力を手に入れていく。
さらに狙いをつけた生徒に声を掛け、彼女たちを自分の背後にいる反社会的勢力の贄とした。
これまで私が出会ったどんな人間とも違うタイプで、どう対処していいかまったく分からなかった。
大人たちに協力を仰いでもできることは限られていた。
生徒会は治外法権のような状態にあり、理事長でさえ手をこまねく状況だったからだ。
しかも、彼女の暴力性は私を戦慄させた。
抜き身のナイフのような存在だ。
怒らせれば何をされるか分からないという恐ろしさがあった。
結局、茶道部の部員に手を出さないことと引き換えにこちらも口を出さないという密約を結ぶことで精一杯だった。
それすらあちこちに頭を下げてのもので、自分の無力さを思い知らされた。
忸怩たる思いのまま2年間耐え忍び、3年生になった矢先に高階はすべてを失った。
退学処分だけならそれ以前にも可能だっただろう。
しかし、それだけで彼女を封じ込めることは難しい。
校内への立ち入りを禁じてもどんな報復を企むか分かったものではない。
警戒していても生徒の登下校時などを狙われては完璧に対処するのは不可能だ。
警察の介入にしても未成年者ということでどこまで罪を問えるか疑問だった。
反社会的勢力と繋がりがあるのは事実だが、脅されていたと被害者面をされれば保護観察程度で済むかもしれなかった。
彼女は狡猾で明確な犯罪の証拠も残していない。
あと1年、あるいは卒業後も寄生虫のようにこの高校で甘い汁を吸おうとしていた高階を駆除したのはひとりの新入生だった。
彼女は前年の夏頃から理事長と計画を練っていたらしい。
警察に引き渡した上で精神科の病院に入院させるという手法で高階の社会復帰を遠ざけた。
私が知り得た情報では絶望した高階は生命維持すら困難な状況に陥っているようだ。
こうして華々しく登場した新入生の日野さんは生徒会長の座についた。
私ができなかったことをやり遂げた彼女はそれを誇るでもなく、理事長が望んでいた改革を加速させる勢いで進めていく。
私は彼女と手を結ぼうと考えていたが、OG会の反発を見て日和ってしまった。
現在は理事長が解任の危機にあるのでその判断が間違っていたとまでは言えない。
だが、日野さんは学園の理事に就任するなど防戦に徹せず反撃の構えも見せている。
祖母も彼女に一目置いているようだった。
「臨時の理事会は開かれるのですか?」
帰りの車中で私は隣りに座る日吉さんに尋ねた。
辺りは暗く、また雨が降り出してきたようだ。
「日野様が反対していらっしゃるようで、大奥様は迷われているようですね」
感情を含まない事務的な声が返ってきた。
理事長が九条山吹様たちと旅行に出掛けたとのことで、祖母は理事長と山吹様の母で臨玲理事の朝顔様のふたりを排除しようと画策していた。
旅行そのものはともかく、多くのホストを伴ってとなれば醜聞に発展しかねない。
日吉さんによると、理事会で取り上げると世間に知られる可能性が出て来るので厳重注意でとどめておくべきだと日野さんは主張しているそうだ。
「いかに山吹様といえど、臨玲の名を貶めるとは思えませんが」
「日野様は山吹様がマスメディアと繋がり臨玲高校内部の事情を記事として公表した証拠を掴んでいらっしゃるようです。御母堂の処分となれば暴発する危険はあるというお考えなのでしょう」
そんなことをすれば自らの醜態を世に知らしめすだけだと思うが、合理的な判断だけで動く人ではない。
私の周りには理性的な言動こそが美徳だと考える人が多かったので、山吹様のように平気で感情的な行動をとる人を理解できなかった。
「家名に傷がつくと分かっていてもそこまでするでしょうか?」
「いまの若い方は皆様大変自制されていて、感情に任せて後先を考えない方のことを理解できないのかもしれませんね」
「……それは弱点でしょうか?」
高階に突きつけられた私のひ弱さ。
臨玲茶道部のぬくぬくとした世界では優秀と褒めそやされても、そこは社会のごく一部でしかない。
人の上に立ち、人を束ね、人を導く。
それができると信じていた。
それができなければならなかった。
母は才媛として知られ請われて吉田家に嫁いだ。
その娘である私がこんなことでは母に顔向けができない。
「奥様――ゆかり様のお母様はよく仰っていました。『優秀だと周りから言われても、自分ができることなどごくわずかで、知っていることもほんの少しです』と。私に対しても常に謙虚に接してくださいました」
日吉さんの口から母のことが語られるのは稀だ。
私は彼女の横顔を凝視する。
「どんな方も弱点をお持ちだと思います」と日吉さんは締めたが、もう少し母の思い出を聞きたかった。
「日吉さん。母は……、母はこの家に来て幸せだったのでしょうか?」
日吉さんの皺が刻まれた目がこちらを向く。
普段同様温かみは感じないが、冷たく突き放すような視線でもなかった。
「奥様の心情まではお答えできかねます。しかし、お子様へ向けた眼差しは大変愛情の籠められたものでした」
人前で意図なく感情の揺れを見せてはならない。
その教えを守るために私は車窓に顔を向け、そこに映る自分の顔をずっと見つめていた。
††††† 登場人物紹介 †††††
吉田ゆかり・・・臨玲高校3年生。生徒の中でも認められた者だけが入部を許される茶道部で部長を務める。祖母は臨玲の理事。
芳場美優希・・・臨玲高校3年生。現職総理大臣の実娘。前生徒会長。高階排除に協力する代わりに生徒会長時代のことは不問にされた。
椚たえ子・・・臨玲高校理事長。有能だが人望に欠けるという評価をされてきた。だが、ホストにハマって仕事を疎かにしている。
九条山吹・・・臨玲高校OG。母が臨玲高校理事で、OG会では強大な力を振るっている。
日野可恋・・・臨玲高校1年生。生徒会長兼臨玲高校理事。理事長派だと見られている。
日吉・・・ゆかりの祖母の秘書。ゆかりの父が子どもの頃から祖母の側で働いていた。
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