第128話 令和3年8月11日(水)「夏休みも半ばを過ぎて」日野可恋
「これでどうかな?」とひぃながプリントアウトした資料を私に手渡した。
受け取った私は精読する。
これは彼女が起業するファッションブランドの事業計画書だ。
そして、夏休みの課題として提出する予定のものでもある。
誤字脱字や論理の飛躍こそないものの目標としている数値に希望的観測が含まれていて、私は赤ペンで「根拠を示すように」と添削した。
私が資料を返すと、赤い文字に気づいたひぃなが顰めっ面になっている。
ブランドの資産価値について参考になりそうな書物の題名を記しておいたが、「こんなに読んでいたら夏休みが終わっちゃうよ」と愚痴を零していた。
「夏休みの課題と高校生での起業という目標の両方が一度に達成できるんだから一石二鳥じゃない」
「本当にこんなので課題を提出したことになるの?」とひぃなは不安がっているが、「戸辺先生から問題ないって言われたじゃない」と私はその不安を打ち消す。
今年の夏休みの課題に自由研究のようなものがあった。
2学期にはクラスメイトの前で研究成果の発表のようなこともするらしい。
夏休み中に何度かオンラインで研究領域に沿った教師に指導を受けて書き進めることになっている。
ひぃなの担当は社会科や家庭科教師ではなく数学教師で担任の戸辺先生となったが、研究テーマについてダメ出しをされてはいないので大丈夫だろう。
「ひと休みしようか。お茶を淹れるね」
そう言うとひぃなが席を立つ。
いつもならそれは私の役割だったが、最近私の体調が優れないことを気遣って彼女は私より先に動いてくれる。
「お願い」と言って私はソファに深く腰掛ける。
初めて会った頃のひぃなは体力がなく、ちょっと重いものを持っただけでこちらがハラハラしてしまうこともあった。
いまも筋力は同世代の女子と比べると物足りないが、あの頃と比較すれば体幹もしっかりしてきた。
かなり筋肉がつきにくい体質だが、適切な食事と運動の成果は決して裏切らない。
それに紅茶の淹れ方も上達した。
姉である華菜さんの指導の下で特訓を重ねた結果だろう。
彼女は外見からは想像できないくらい真面目な努力家だ。
ゆっくりとでも着実に積み上げてきたことは大きな武器になるはずだ。
ひぃなを待つ間、私は連絡が来た案件に目を通す。
NPO法人のF-SASはスタッフが優秀なので高校生の私でもトップが務まっている。
方針を打ち出したり、問題を処理したり、進捗を確認して最適化したりするくらいで個々の業務は任せているだけでよかった。
ただ東京オリンピックがあってスタッフの多くはそれに関わった。
まだパラリンピックもあるだけに、いまはしっかり休養を取ることが大切だ。
一方で、通常業務を中心になって担ってくれた土方さんの元気がないのが気になるところだ。
歳下の私に対しても上司として敬意を持って接してくれる人だけに、こちらも誠意を持って応対すべきだろう。
とはいえ私の状態がこれでは動くこともままならない。
私はトレイを持って戻って来たひぃなに視線を向ける。
彼女も多忙な身だ。
生徒会のことは彼女と岡本さんに委ねているし、臨玲祭に向けた短編映画の撮影の準備も紫苑とともに着々と進めている。
F-SASのことは彼女の管轄外であることは百も承知だ。
「ひぃなに頼みがあるんだけど」と私は切り出す。
「F-SASの土方さん。前にも話をしてもらったよね。また話を聞いて欲しいんだけど」
「いいよ」とひぃなは快く引き受けてくれる。
「ありがとう。頼りにしているよ」
私が微笑みかけると彼女もニッコリと微笑んだ。
中学生の時は天使や妖精に譬えられることの多かったひぃなだが、いまはより上位の女神と呼ぶのが相応しいように思う。
いまだ幼い美少女といった容貌だが自信がついたせいかひと回り大きく見えるようになった。
土方さんについて多少の予備知識を与えたあと、ひぃなが淹れてくれた紅茶を飲みながら生徒会の仕事について報告してもらう。
彼女は生き生きとした表情で語り始めた。
こういう時の口調は私に似ている。
彼女の場合愛らしさがあるので上から目線と思われにくいが、注意しておいた方がいいだろうか。
「ひぃななら言われなくても分かっているだろうけど、私の前以外ではもう少し柔らかい話し方にした方がいいんじゃないかな」
「可恋はいいの?」
「私はほら、悪役キャラだから」
「えー、そんなことないよ。中学の時はうまくできなかったけど、可恋のイメージアップ大作戦が必要だよね」
「要らないから」
生徒会が抱えている仕事の中では演劇部の件だけはふたりだけに託しておけないようだ。
既に演劇部部長の3年生が生徒会長と直談判したいと岡本さんに詰め寄っているらしい。
予定していた演劇の公演が開催できず、それをインターネット上で公開したいと許可を求めてきた。
過去に数々の大問題を引き起こした部だと聞いている。
いまの部員はそれに直接関与していないものの過去の実績から簡単には承諾できない。
生配信などもってのほかで、配信内容を詳細に事前確認する必要が出て来るだろう。
今後のことも含めてそれらのルール作りをしておかなければならない。
「可恋。無理はしないでね」
私が疲れた顔を見せるとひぃなが心配そうに声を掛けた。
私は「少し休むよ」とリビングから自分の部屋へと向かう。
その時スマートフォンに着信があった。
臨玲高校主幹の北条さんからだ。
部屋のドアを開けながら電話に出ると、『申し訳ありません』という第一声が飛び込んできた。
私は立ち止まって『何かありましたか?』と尋ねる。
『理事長が……、理事長が山吹様たちとご旅行に行かれたようです』
††††† 登場人物紹介 †††††
日野可恋・・・臨玲高校1年生。生徒会長。女子学生アスリート支援のNPO法人F-SASの共同代表を務めている。
日々木陽稲・・・臨玲高校1年生。生徒会副会長。ファッションデザイナーを目指しており高校在学中に起業して年商1億円をあげるように可恋から言われている。現在可恋と同棲中。
岡本真澄・・・臨玲高校2年生。生徒会長補佐。有能さを遺憾なく発揮できて生徒会の仕事をすることが楽しくて仕方がない。
戸辺シャーリー・・・臨玲高校教師。可恋たちの担任であり生徒会の担当でもある。
土方なつめ・・・F-SAS職員。高卒1年目だが同僚や上司から信頼されている。
北条真純・・・臨玲高校主幹。理事長椚の右腕であり、学校業務を束ねる中心人物。
椚たえ子・・・臨玲高校理事長。山吹の通うホストクラブの店員に入れあげている。
九条山吹・・・臨玲高校OG。椚を嫌っていて理事長の座から引きずり落とそうと虎視眈々と狙っている。ホストを引き合わせたのもその策略の一環。
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