第129話 令和3年8月12日(木)「北へ」北条真純
「寒っ!」
空港に降り立った私は長袖のブラウスの両肘を抱いて身震いした。
スマートフォンで現地の気温を確認したところ16℃を少し越えたところだ。
朝、神奈川の自宅を出た時はその倍とまでは言わないまでも25℃は越えていたはずだから10℃以上も下がっている。
直情径行とは無縁だと思っていた私が取るものも取りあえず行動してしまった。
昨日臨玲高校理事長の椚たえ子が九条山吹と一緒に北海道東部に観光に出掛けたと知り、気づいたら羽田発の航空券を購入していた。
例年ならとても前日に予約なんてできなかっただろうが、不要不急の県境越えを自粛するよう叫ばれているいまは空席が残っていた。
……事務方とはいえ高校トップが不要不急の旅行をするなんて示しがつかないのだけれど。
それはさておき、有休を使って夏休みを1日前倒しにすると仕事の調整を済ませ私はここにやって来た。
周りを見ればみんなもっと厚着をしていて、こんな薄着でうろついているのは私だけだ。
事前の準備や下調べもろくにしていなかったのだから、こんなことになるのは自業自得だと言える。
空港内には土産物屋くらいしかなく、外に出ると……駐車場しかなかった。
民家さえなくて、あるのは一面の森だけだ。
私はとりあえずレンタカーを借りてようやくひと心地つくことができた。
理事長が宿泊している旅館の名前は分かっている。
山吹氏と彼女の友人、それに彼女が懇意にしているホストが数人同行しているらしい。
理事長はいい大人だし、プライベートに何をしても構わない。
独身なのだから男と遊び歩いても問題はない。
私は彼女と仕事上のつき合いだけなのだから、仕事に支障を来さない限り文句を言うべきではないと弁えているつもりだった。
現実は仕事にかなり支障を来し、何度も注意することとなった。
見放すこともできた。
本当に仕事のことだけ考えたならそうすべきだっただろう。
周囲には理事長の腹心のように思われているが、彼女が失脚しても私の地位は安泰だと保証してもらっている。
いままでの私なら彼女を見捨てて新しい上司に仕えていたはずだ。
しかし、それができなかった。
彼女の方が歳上なのにまるで頼りない妹か娘のように思ってしまう。
優秀さと無能さを併せ持ち、私以外に頼るべきものを持たない孤独な人。
人嫌いで、偏屈で、自分の思い通りにならないとすぐにわめき散らす。
それでも臨玲高校の改革にかける情熱は本物だったし、常識に囚われない思考を持ち、部下の私に多大な権限を与えてくれた羽振りの良いボスでもあった。
そんな彼女をたらし込むことができた男がいたことが誤算だった。
私は彼女の信頼をつかむまでに相当の時間を要した。
理事長は人間不信があり、異性に対してはそれがより顕著に表れている。
どんなイケメンが寄って来ても、恋愛以前に会話が成り立たないと予想していたのだ。
それなのに出会った直後に堕とされてしまったようだ。
山吹氏も参加していたパーティーに出席し、酔い潰れたところを介抱されたらしい。
それだけであの唐変木が恋の虜になってしまうとは。
敵対する山吹氏の知り合いだと分かっていても理事長はそのホストに入れあげた。
諫言する私を避けてまで彼女はホストに会いに行っている。
このまますべてを失ったとしても自己責任だと笑われるだけだろう。
カーナビを頼りにまずは服を調達することにする。
旅館に直行するつもりだったが、寒さで少し冷静さを取り戻せたかもしれない。
着の身着のままではないものの、こちらの気温を調べることを失念していた。
車中ならともかく、この恰好で外に長くいればすぐに風邪を引きそうだ。
市街地に入り、ショッピングモールに向かう。
秋冬物を何着か購入し、すぐに着替えてようやくホッと息をつく。
すると空腹を感じた。
そろそろお昼時だ。
私は店員さんにお勧めのお店を聞き、そこに向かうことにした。
旅行なんて何年ぶりだろう。
学生時代は友だちとよく出掛けていた。
いま思えばバイトで稼いだお金をかなり旅行につぎ込んでいたのだから立派な趣味だと言えただろう。
当時はただ楽しかったからという意識だった。
社会人になると仕事中心の生活になり、旅行も仕事絡みばかりになった。
仕事優先の生活は友人の数を減らした。
旅行を計画しても何度もドタキャンすれば必然だ。
ひとり旅はなんだか虚しく感じて、旅行そのものから足が遠ざかっていった。
教えてもらったお店はグルメガイドには載らないようなごく普通の食堂で、ごく普通のおじさんおばさんが店を切り盛りしていた。
この時間でもまあまあの混み具合だった。
少し心配していたら、味は驚くほど美味しかった。
食べて感激する体験もずいぶん久し振りだ。
「ごちそうさまでした。びっくりするほど美味しかったです!」と精算時に伝えると、「素材が良いからね」と謙遜していたが決してそれだけではあるまい。
私は心の中で教えてくれた店員さんにも感謝しながら車に戻った。
すっかり旅行気分に浸っていたが、本番はここからだ。
旅館に押しかけたからといって理事長に会えるとは限らない。
いや、会ったところで何と言うのか。
わたしはエンジンを掛けないまま運転席に座り込む。
雲間から太陽がのぞき、暖かな陽差しが降り注いでいる。
風も空気も太陽も鎌倉とは全然違う。
「よし」と声に出して呟く。
昨日、日野さんに理事長に会いに行くと伝えた時、呆れた声ながら「納得できるまで行動すればいいんじゃないですか」と言われた。
それを励ましだと解釈するのは都合が良すぎかもしれないが、いまは行動するしかない。
私はひとつ息を吐き、エンジンを始動する。
車はカーナビの目的地に向けてゆっくりと前進した。
豪華な旅館だ。
森の中にポツンと建っているが近くに有名な湖があるので人気のリゾート地だ。
駐車場に着いてから私は理事長に電話を掛ける。
最近は定時連絡以外は電話に出ないこともあり、出ないかもしれないと思いながら呼び出し音を聞いていた。
『はい』
理事長の声を聞いて、私は身を固くする。
これでこれまで積み上げてきたふたりの関係が壊れてしまう可能性もある。
しかし、このままでも壊れてしまうのだ。
指を咥えてそれを見ているだけなんて私の性に合わない。
『いま理事長が宿泊している旅館の駐車場に来ています。いまから会えませんか?』
『はあ?』
かなり素っ頓狂な驚きの声を聞くことができた。
山吹氏が近くにいたらからかいのネタになりそうなので、そこはちょっと心配する。
『来てるってここに?』
私は事実上彼女の個人秘書でもある。
だから、彼女は宿泊する旅館の場所を伝えていた。
律儀と言えば律儀だが、私が押しかけてくる可能性なんて万に一つも考えていなかったのだろう。
『はい』と答えると、彼女は黙り込んだ。
しばしの沈黙を私が破る。
緊張した声で『仕事ではなくプライベートで来ました。友人として会っていただけないでしょうか』と告げた。
スマートフォンを持つ手に力がこもる。
ノーと言われたら空港に直行するつもりだ。
無事に運転ができればの話だが。
『……分かった』
その言葉とともに電話が切れる。
私は唇を噛み締めたまま理事長が出て来るのを待った。
車から降りて周囲を見回していると、彼女が現れた。
ひとりの人物を伴って。
身長は高くない。
小柄な理事長より少し高いくらいだ。
理事長は見栄えのしないスウェットの上下という出で立ちだが、隣りでエスコートする人は遠目でも分かるくらいにセンスの良いスーツ姿だった。
……どちらもこんな観光地には相応しくない服装だという自覚はないのだろうか。
これまでこのホストの情報を集めようとはしていたが、残念ながら素性は不明なままだ。
直に会うのもこれが初めてで、私は目を細めてじろじろと彼の顔を見た。
中性的な顔立ち。
整ってはいるが、あまり個性を感じさせない容貌だ。
一見、人畜無害。
ホストだと知らなければ、清潔感のある好青年に見えただろう。
理事長は私が本当にいたことにまだ驚いている。
そんな彼女に「紹介していただけますか?」と声を掛けた。
「トモヤさん」と甘えた声で理事長が紹介すると、「トモヤです。お噂はかねがね伺っています。北条真純さん」と人好きのする顔で彼は微笑んだ。
「よろしくお願いします。たえ子には仕事を頑張るように言っているんですが、僕のことが気になって仕事が手につかないって言われちゃって」
場違いなほど明るい声で笑った彼は「こんなところではなんですから、中に入りましょう。宿泊先が決まっていないなら部屋を取りますよ」と気さくに私に接し、理事長の手を引いて歩き出そうとする。
私が躊躇っていると彼は振り向き「山吹様御一行はドライブに出掛けています。僕のことが怖いですか? 大丈夫ですよ。僕、元・女なので」とマスクに人差し指を立て「秘密なんですが」とウィンクした。
呆然と立ち尽くす私を置いてふたりは歩を進める。
こんな展開は予想していなかった。
それでも私はふたりのあとを追う。
何らかの決着をつけるために。
††††† 登場人物紹介 †††††
北条真純・・・臨玲高校主幹。事務方のトップであり事実上学校の運営を取り仕切っている存在。外資系に勤めていた時に椚に引き抜かれた。
椚たえ子・・・臨玲高校理事長。学園長派との派閥争いには勝利したものの人望を欠き改革は捗っていなかった。北条に全幅の信頼を寄せているが、最近ホストに熱を上げている。
九条山吹・・・臨玲高校OG。椚とは高校時代の学友で、彼女をいじめていた。彼女の母は臨玲理事でOG会会長でもある。それなのに椚が理事長でいることに我慢がならず、引きずり下ろそうと画策している。
日野可恋・・・臨玲高校1年生。生徒会長。臨玲高校理事でもある。北条や椚に改革の切り札と期待され、ここまではその期待以上の結果を残している。
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