第126話 令和3年8月9日(月)「来訪」日々木陽稲

「吹き飛ばされないように本気で注意して」


 そう話す可恋の顔つきは真剣だ。

 わたしは安心させるように「気をつけるよ」と微笑んだが、「私が送っていければよかったんだけど……」と彼女は表情を曇らせる。

 迎えに来てくれたお姉ちゃんにも「くれぐれも警戒を怠らないようにしてください」と注意点を何度も口にした。


 夏休みに入ってから可恋の体調が優れない日が続いている。

 寝込むほど酷くはないが、外に出るのが辛そうな状態だ。

 可恋のマンションからわたしの家まではゆっくり歩いても10分くらいの距離だが、わたしを送っていくことさえ難しいようだ。

 当初の予定を変更しお姉ちゃんに迎えに来てもらうこととなった。

 天気が悪いこと以上に台風の影響によって風が強い点を可恋は気に病んでいて、体重の軽いわたしのことを心配してくれている。


 そこで胸を張って「大丈夫」と答えられたらいいが、過去に突風で吹き飛ばされかけたことがあるのでわたしはおとなしく注意を受け入れた。

 そういう時はたいてい可恋か純ちゃんが側にいて助けてくれた。

 ふたりとも男性顔負けの安定感がある。

 普通の女の子であるお姉ちゃんでは心もとないのだろう。


 お父さんが来られたら良かったのだけど、父方の祖父である”じぃじ”たちの訪問スケジュールが少し変更になって家の中は大わらわな状況らしい。

 気圧のせいかお母さんもあまり調子が良くないようなので、お父さんが家に残りお姉ちゃんが来てくれた。


「最近ちょっと体重増えたから大丈夫だと思うよ」とお姉ちゃんは自嘲気味に話す。


 大学受験に備えてこの夏休みは勉強に集中していて、運動不足だと嘆いていた。

 朝のジョギングにも参加しないことがあり、そういう日はわたしと純ちゃんのふたりだけで走っている。

 純ちゃんはこの夏は泳ぎ込みを続けていて、長野でのインターハイに向けて順調に仕上がっているそうだ。

 可恋は朝稽古にほとんど参加していない。

 ジョギングから帰って来たわたしと純ちゃんを寝惚けまなこで出迎えて朝食を摂ることが多い。

 朝食後に純ちゃんはスイミングクラブに行き、可恋はようやくエンジンが掛かった感じで勉強や仕事に取りかかる。

 体調がいまひとつでも集中力は凄まじく、さすが可恋と開いた口がふさがらない毎日だった。


 外見だけだと病気なんてまったく無縁そうに見える可恋だが、生まれつき免疫系の障害があった。

 幼少期は入退院を繰り返し、小学生の頃は欠席ばかりだったと聞いている。

 徐々に体力をつけ、身体を鍛え、人一倍の努力で並み外れた能力を身につけていった。

 それでもこちらに転校してきた頃は学校を休むことが多かった。


 特に冬場は休みがちだった。

 少しでも違和感があれば決断良く欠席するという方針があってのことだが、インフルエンザに罹っただけで即入院となってしまうのだ。

 慎重になるのも当然だった。

 いまの感染症の恐怖を彼女はそれ以前から味わっていたと言えるのかもしれない。

 可恋にとっては”たかがインフルエンザ”ではなく死を覚悟する病気だった。


 そんな可恋だから昨年は学校に行かないという選択をした。

 授業を受けなくても学業は優秀であり、周りのサポートもあって快適な環境である彼女のマンションに引き籠もった生活を続けた。

 彼女の母親は著名な大学教授で、様々な人々の支援活動にも力を入れている。

 そのため感染リスクが高く、家庭内感染を恐れて東京に拠点を移した。

 ひとりになる可恋のためにわたしが一緒に暮らすことになり、この同居生活も1年以上となる。

 想像していたようなイチャイチャした日々ではないが、平穏で落ち着いた暮らしはとてもとても温かく、これが幸せなのかという思いを重ねている。


 大きな変化が訪れたのはわたしたちの高校入学だ。

 可恋はわたしのために同じ臨玲高校に入学し、わたしのためにそこに巣くう悪を退治してくれた。

 さらにわたしが安心して過ごせるように高校の改革に取り組んでいる。

 気候が安定していたとはいえ、1学期はあまり欠席することなく可恋は学校に行き続けた。

 夏休みの不調はその反動なのかもしれない。

 本人は口が裂けても言わないだろうけど。


 幸い転びそうになったのは1度だけで済み、無事に自宅にたどり着いた。

 シルクのサマーコートは強風にも乱れず余裕を感じていたら、お揃いの色合いのローファーを汚さないよう歩調を乱したところでコケかけた。

 あんなところに水溜まりあったのが悪いのであって、わたしがドジだからではない。


 玄関には到着したばかりの祖父母がいて、ちょっとした密になった。

 わたしに抱きつきそうになる”じぃじ”を周りが必死になって止め、挨拶もほどほどに順番に中に入ってもらう。

 祖父母やわたしはワクチン接種を終えているが、感染対策の重要さをみんな理解してくれているので強く言わなくても従ってくれた。


 わたしの祖父母はこの夏3人の息子の家を順番に回っている。

 お盆に親戚一同が集まるのは恒例だったが、昨年の夏以降は行われていない。

 個別には北関東にある”じぃじ”の自宅を訪れているようだが、昔のように大勢が顔を揃える日が来るのはいつのことだろうか。

 春休みにわたしの進学と誕生日を祝うために”じぃじ”が来てくれた。

 そしてこの夏もこちらから行くのではなく訪問してもらう形となった。


 リビングでそれぞれが席に着くと、「ヒナ、会いたかったぞ」と”じぃじ”は上機嫌で喜んでくれた。

 だが、わたしは孫として接する前に可恋の手紙を渡し、「可恋が大変遺憾だと残念がっていました。HPP社の代表取締役としてもお詫び申し上げますと……」と彼女に代わって口上を述べる。


「可恋ちゃんには臨玲のことで想像を超える活躍をしてもらっておる。さらに我が家のゴタゴタにまで巻き込む訳にはいかん。こちらに気を遣わず、しっかり養生することに専念して欲しいと伝えておいて欲しい」


 そう真面目な顔で話した”じぃじ”は顔をしかめて「息子たちが頼りないから高校生の女の子にまで迷惑を掛けるのだ」と3人の息子への愚痴を零し始めた。

 そのひとりであるお父さんは神妙な顔でそれを聞いている。

 弁護をしてあげたかったものの、それをすると話が長くなることをこの場に居る全員が知っている。

 お父さんは遺産を当てにせず、「自分の力で生きよ」という自分の父親の言葉を守っている。

 責められる道理はないはずなのに、”じぃじ”に言わせると浅ましい上の兄ふたりを諫める気概が足りないということになるらしい。

 そこまで求められてもとは思うが、”じぃじ”の遺産は莫大で周りにも影響を与えると分かっている以上、血の繋がりがある者としての責任を果たせと言われると言い返せない。

 まして、揉める原因はわたしにある。

 ほかのことならいちばん気に入られているわたしが口を挟めば止めてもらえただろうが、ここでは言い出しにくかった。


「気疲れがあったのは分かりますが、実花子さんたちに話すことでもないでしょう。そろそろお昼をいただきましょう」


 お祖母ちゃんが諫めてくれてようやく独演会が終わってくれた。

 空気を変えるようにお姉ちゃんが明るい声で歓迎の思いを込めた料理について語り、お父さんが準備を調える。

 わたしは手伝おうとしたが、”じぃじ”の相手をするように家族から目で合図された。

 お姉ちゃんと入れ替わるように”じぃじ”の接待役となり、わたしは臨玲での高校生活について語った。


「ワシの我がままだったが、ヒナが楽しい学校生活を送ってくれているのであればホッとするわい」


 普段の覇気に満ちた口調ではなく、歳相応の渋みと安堵感が溢れた声だった。

 彼の母親――わたしにとってのひいお祖母ちゃん――の詳しいことは自分の息子たちにも話していないようなので、わたしもいまそれについては触れない。

 ただわたしも自分のルーツについて親しみを感じることができたので、この高校に進学して良かったといまは思っている。


「きっと大丈夫だよ」とわたしは胸を張る。


 わたしには可恋がいて、家族がいて、”じぃじ”がいて、純ちゃんがいて、紫苑がいて、支えてくれる人がいっぱいいる。

 返しきれないほどの恩をいっぱいもらっている。

 これからもたくさん助けてもらうだろうが、わたしも少しずつは力をつけてきているし、こちらから返せるものもあるだろう。


 だから、きっと大丈夫。




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木陽稲・・・臨玲高校1年生。”じぃじ”の息子と孫たちの中でただひとり彼のロシア系の外見を引き継いだ。それにより”じぃじ”から溺愛され、服飾費や高校の学資の支援を受けている。そればかりか臨玲への多額の寄付があり伯父ふたりの家族から問題視されている。


日野可恋・・・臨玲高校1年生。空手くらいにしか興味を持っていなかったが陽稲との出逢いで劇的に変化した。プライベートカンパニーのHPP社を起業し、陽稲の祖父からの寄付金で建てられた新館の運用に携わっている。


日々木華菜・・・陽稲の姉。高校3年生。現在管理栄養士を目指し大学受験に備えて勉強中。


安藤純・・・臨玲高校1年生。陽稲の幼なじみ。恵まれた体格から競泳界では若手のホープと呼ばれている。


日々木実花子・・・陽稲・華菜の母。昨年末に倒れて入院し、現在は自宅でリハビリ中。陽稲の祖父にもハッキリものが言える人物。

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