第124話 令和3年8月7日(土)「齟齬」土方なつめ
『就業規則違反によりおふたりとの契約を解除します』
今日のオンラインでの朝礼で代表がアルバイトふたりを解雇した。
私に対しても監督責任を負うものとして注意の処分が下る。
その場では反省した態度を見せていたふたりはその直後にLINEで私に愚痴とも非難ともとれる言葉を送ってきた。
『酷すぎ』『ウザい』『あり得ない』『高校生のくせに生意気』等々。
twitterで世界に公表すると息巻くふたりに『確実に訴えられるよ』と忠告する。
選手に対する誹謗中傷を法的に解決するよう取り組んでいる組織相手に迂闊なことはしない方が良い。
『あたしたちはオンラインで会員の相手をするのが仕事で、コロナに感染したって関係ないじゃん』という趣旨をもう少し汚い言葉で伝えてきたが、『そういうルールだって事前に説明しましたよね』と言うと向こうも少しトーンダウンした。
それでも楽な割に報酬の良いアルバイトを失うのは嫌なようで、社員である私になんとかならないかと訴えてくる。
そんなに必死になるなら、大勢での飲み会に参加しあろうことかそれを自分のSNSで公開するなどという愚を犯さなければいいのにと思ってしまう。
アルバイトには会員のプライバシーを漏洩しないことと新型コロナウイルスへの感染症対策を徹底することのふたつは特に注意して伝えている。
前者は多額の損害賠償を請求されるという脅しも利いているのかまだ起きていないが、後者は残念ながら頻発していた。
これまでは厳重注意で済ますことが多かったが、今回のように明確な証拠があるとこうなってしまうのは避けようがない。
若者みんなが新型コロナウイルスをただの風邪だと思っている訳ではないが、そういう人が一定数いるのは事実だ。
私より少し歳上の大学生アルバイトふたりをなんとか宥めて、この結果を受け入れてもらう。
精神的に負担の大きな役目だが逃げることはできない。
ほかの職員は間もなく閉幕する東京オリンピックの現場で頑張っている。
私もそちらの仕事がしたいという思いはあったが、F-SAS会員――全国の女子学生アスリート――からの相談件数は夏休みに入って増えており、その応対はこのNPO法人の最重要業務なだけに放り出すことはできなかった。
夜になり、アルバイトを終えたマイハニーこと
彼女は現在都内で高校受験を目的とした進学塾の講師をしている。
さすがに一流大学の学生だけあってその手のアルバイトの口には困らないようだ。
私が4月まで同じ立場だった高校生からの相談なら世代の違いを感じないのに、中学生からの相談だともう会話が通じないと茶化して話したことから興味を持ったらしい。
「中学生ってまだまだ子どもって感じがしますよねー」と彼女は感想を漏らす。
「でも、時々ずっしりと重い相談が来るから、大人と子どもの境界にいるんだなって感じるよ」
「自分も高校生の時よりいろいろ考えていたような気がしますね。人の目も気にしていましたし……」
「凄いな。私なんて中学生の時は本当に何も考えていなかったよ」
男子に混じって毎日遊んでいた記憶しかない。
女だという自覚にも乏しかった。
だから女子のグループには入れてもらえなかったけれど、まったく気にしていなかった。
ひとしきり互いの中学生時代を語り合う。
そのあと、彼女は「明日お休みなんですよね? 遊びに行きましょうよ」と提案してきた。
来週になると彼女は実家に帰省する。
その前に遊ぼうというごく自然な発言だった。
私に断られることなど微塵も考えていないようで「友だちに教えてもらったレストランがあるんですよ!」とマイハニーは楽しそうに言葉を続ける。
「……ごめん」
私は項垂れ、力ない言葉を口にする。
その声が聞こえなかったのかレストランの魅力を語っていた彼女はしばらく経ってから私の様子が不穏なことに気がついたようだった。
「緊急事態宣言が出ているし、止めておくよ」
私が硬い表情でそう言うと、信じられないものを見るような目つきで彼女はこちらを凝視した。
その愛らしい瞳には非難めいた色合いが宿っているように感じる。
「いったいどうしたんですか?」
「どうもしないよ。緊急事態宣言が出ているから遊びに行かないってだけ」
「コロナなんてタダの風邪ですよ」
彼女の声に馬鹿にしたような響きがあると思うのは気のせいだろうか。
私が「4月に宣言が出た時は藤間さんも感染対策を頑張っていたじゃない」と言っても、「騙されていたんですよ」と相手にしない。
「みんな言ってますよ。大学でもネットでも。大げさに心配している人も確かにいますけど、ほとんどの人は現実に気づいていますから」
「新規感染者数が最多を更新したよ」と反論しても「死亡者数は増えていませんよね」と聞く耳を持たない。
私も社会が騒ぎすぎなんじゃないかと代表に疑問をぶつけたことがある。
その時はあっという間に論破されたが、「なつめさんのように相手の意見に耳を貸すことができる人には伝わっても、自分の意見に凝り固まった人の耳には届かない」と代表は話していた。
高卒の私より遥かに頭が良いはずの藤間さんは一流大学に通ううちにこうした考えに取り憑かれた。
それでも決定的な対立は避けてきたが……。
代表に言われて新聞や政府機関から公表されている情報を読み漁った。
信頼できるとされる専門家の意見にも目を通した。
私の悪い頭でも、この感染症の怖さや医療現場の苛酷さは理解したつもりだ。
例えば重症は最高の医療が受けられないと生存が難しい状態であり、その医療を提供するためには高度な医療器具とそれを動かすスタッフが必要となる。
口で言うほど簡単にそれらを増やすことはできない。
COVID-19は軽症や中等症から突然重症化することも知られている。
病床に空きがなければ当然それに対応できない。
そうして起きるのが医療崩壊だ。
関西では第4波で起き、十分な医療を受けられない高齢者が多かったそうだ。
この第5波はワクチン接種の効果で高齢者の重症化は防がれているが、40代50代といった私たちの親世代の重症患者が増えているらしい。
いまは死亡まで至るケースは少ない。
だが、数が増えれば対応できないケースは激増していく。
その皺寄せはコロナ以外の病気や怪我にも及ぶと言われている。
少なくとも高度な医療を必要とする状況で、十分な医療が受けられなかったら……。
こうしたことを彼女にも少しずつ伝えようとしたが、頭からメディアや政府、専門家の発言を信用しなかった。
それらよりも友だちやユーチューバーの意見が正しいそうだ。
昨日解雇された大学生たちも似たようなものなのだろう。
私は諦めた顔で首を横に振る。
すると彼女は「そうですか」と捨て台詞を残して私の部屋を出て行った。
こんな分断は世界中のあちこちで起きているのだろう。
だが、それを知ったところで何の慰めにもならない。
私は深い深いため息を吐くと、床に転がっていたダンベルを持ち上げた。
††††† 登場人物紹介 †††††
土方なつめ・・・NPO法人F-SAS職員。女子学生アスリート支援が目的のNPOであり、コロナ禍のいまはインターネット上でのサポートが中心となっている。
日野可恋・・・高校1年生。F-SASを立ち上げた張本人であり共同代表を務めている。
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