第122話 令和3年8月5日(木)「東京オリンピック」神瀬結
超満員の日本武道館。
大声援を背中に受けてわたしの姉、
気合の籠もった声とともに歓声がやみ、緊迫感に満ちた静寂に包まれた。
わたしは観客席から固唾を飲んで見守る。
姉の演武が冴え渡り、武道館全体が激しく揺れ動く。
オリンピックという最高の舞台で最高の結果を。
金メダルに輝く姉の姿にわたしは隣りに座っていた日野さんと手を取り合って喜んだ……という夢をみた。
本当なら1年前にそうなっていたかもしれない。
しかし、大会は延期された。
そして今日無観客の武道館で東京オリンピックの空手競技がスタートした。
わたしは武道館ではなく自宅のテレビでそれを朝から観戦していた。
中学生を対象にした全国大会である全中が2週間後に迫り、その稽古も必要だったが今日はさすがにこちらが気になってしまう。
先陣を切って空手女子・形に姉が出場するからだ。
姉は金メダル候補である。
実績的には姉とスペインの選手が2強であり、余程のことがない限りこのふたりで決勝が争われることになるだろう。
空手は今回新たに追加された競技だが次のパリでは採用されない。
東京開催だから採用されたと言えるだけに、すべての空手家にとって最初で最後のチャンスとも言えた。
年齢制限があるのでわたしは最初からノーチャンスだったが、姉は全盛期にこの大会を迎えることができた。
ずっと間近で見てきたとまでは言わないが、それでも姉の努力を知るだけに納得のいく結果を出して欲しかった。
お昼までに予選ラウンド、ランキングラウンドが行われ、姉の舞はトップの成績で決勝進出を果たした。
もちろん相手は常に頂点を争ってきたスペイン人だ。
わたしはソワソワした気持ちで決勝戦を待つ。
ジッとしてはいられない。
道場まで行って身体を動かしたいところだが、今日はメディアが取材に来ているので控えている。
いまここで感染してしまうと全中に出られなくなる恐れがあるからだ。
わたしは自分の部屋に戻り、筋トレをして時間を潰す。
空手部の友だちからLINEなどで試合の感想が届いていた。
大半は『お姉さん凄すぎ!』というもので、自分が褒められたかのようにウキウキした気分になる。
以前は偉大な姉と同じ種目であることにプレッシャーがあった。
何をしても姉と比べられたし、姉ほどの成績を残す自信がなかった。
自分は何のために空手をやっているのかと思い悩んだ時期もある。
いまは姉を素直に応援できるようになったし、周囲の反応にも笑顔で答えることができるようになっていた。
夕方が近づくと1分ごとに時計を気にするようになった。
大画面のテレビが置かれたリビングに行くと、母が電話でお喋りをしている。
すでに銀メダル以上が確定しているので、知り合いや親戚縁者からひっきりなしに連絡が来ているようだ。
相手の声は聞こえないがまるで簡単に勝てるように思われているのだろう、母はそうした人たちに「決勝はこれからですから」とこめかみを引きつらせながら応じていた。
日本発祥の武道だからその気持ちは分からない訳ではないが、相手も必死に稽古を重ねてきた最大のライバルだ。
リビングに居ても気が休まりそうになかったので、わたしは庭に出る。
外はまだ陽差しがきついが、その焦げ付くような太陽の熱がもやもやした気持ちを振り払ってくれそうだった。
わたしは裸足で庭の土の上に立つ。
何度も深呼吸を繰り返すうちに眩しさも地面の熱さも意識から消えて行く。
自分が武道館にいると想像しながら、わたしは間もなく姉が行うものと同じ演武をやってみようと思った。
形では予選や決勝で演武の内容を変える必要がある。
当然決勝では自分がもっとも得意な形を選択する。
だから姉がどの形を決勝に持って来るかはずっと前から分かっていた。
実はわたしはその形があまり得意ではない。
いや、周りの評価は悪くない。
あくまで自分の中でそう感じているというだけだ。
やはり姉の演武の印象が強すぎるのだろう。
姉妹だが空手のスタイルには違いがあるので、同じ形でも間の取り方や力の入れ加減など違って当たり前だ。
しかし、スタイルの異なる姉のものを理想としてしまう。
その結果、自分的には納得のいかないものとなる。
姉の迷いない形と、姉ならこうするという残像を浮かべながら行うわたしの形。
これでは良い演武はできない。
姉を乗り越えるなんて望めない。
目を逸らして自分の形だけ追い求めるのではなく、これをうまく統合したい。
その時には……。
そんな思いを込めて、わたしは演武に臨んだ。
……痛ッ。
せっかく無心に身体が動いていたのに前蹴りのあとの着地で小石を踏んでしまった。
幸い怪我というほどの痛みではないが、流れは止まり息が乱れた。
わたしは改めて息を整えるとそこで演武を終える。
足を洗ってからリビングに戻る。
そろそろ始まる時間だ。
母はまだ電話の相手をしている。
わたしはただ画面にだけ集中し、食い入るようにメダルが決まっていく様子を見ていた。
そして、気がつけば決勝だ。
先にスペインの代表が演武を行う。
姉よりも力強さが持ち味の彼女の演武はわたしのお手本でもある。
大画面の映像は迫力があり、真に迫るものだ。
けれども、これを観客席から見てみたかったと同時に思った。
その場に居ないと感じられない空気感を味わいたかった。
ライバルの素晴らしい演武のあと、ついに姉が登場する。
緊張はしているだろうが、よく集中している顔つきだ。
大丈夫。
姉ならやってくれる。
わたしは魅入られたように彼女の動きを目で追った。
最後の残心まで甲乙つけがたい演武だった。
強いていえば……いや、いまは信じて待とう。
審判が勝敗を告げた。
勝者の笑顔に続いて、悔しそうな姉の表情が画面に映し出された。
それを目にした瞬間、堰を切ったようにわたしの目から涙が零れ出した。
「うわわわわーーーーん」
感情がまったくコントロールできない。
姉は勝者を称え、指導してくれたコーチや関係者に対して笑顔を向けている。
そんな姉の姿を見ることが切なくて、わたしはますます号泣した。
こんな大声で泣いて、いつもならチクリと物申す母もいまは声を掛けてこない。
姉も、同じ空手をやっていた母も、ここにいない父もみんな心の底では悔しくて泣いているだろう。
ベストを尽くしたと思うし、相手がそれ以上に素晴らしかっただけのことだけど、それでも悔しいものは悔しい。
その悔しさを胸に秘めて闘志に繋げることが大切なのかもしれないが、いまは、いまだけは泣いたっていいじゃないか。
『……あの』
わたしは泣き続けながら感情に流されるままスマートフォンを手に取ると大切な人に電話を掛ける。
立ち直るためには彼女の声を聞く必要があった。
『結果は残念だけど、空手の魅力を最大限に披露した演武だったね』
すぐに電話に出てくれた日野さんがわたしを気遣うようにそう話す。
わたしは電話口で泣きじゃくるだけだ。
それでも日野さんは優しい声で『次は結さんの番だよ』と言ってくれた。
『……頑張ります。最高の演武をします』
わたしには夢がある。
それを叶えるための第一歩が全中優勝だ。
目元を拭うと、『姉は最高の空手家ですが、わたしは越えてみせます』と宣言する。
わたしの夢――というより野望――はオリンピックで金メダルを獲るよりも困難な道のりだが、必ず実現させるという信念があった。
『その時は日野さんと……』と口に出しかけた時にスマートフォンがミシミシっと音を立てた。
慌てたわたしの手から滑り落ちたスマートフォンをつかもうとして右手を伸ばす。
だが、つかみ損ねてしまい勢いよく床に落ちた。
わたしは悲しさも悔しさも吹き飛んで「あっ……」と呟く。
「お小遣いから引くからね」と冷たい声が飛んできた。
「全中で優勝したら新しいのを買って」と両手を合わせたわたしは、次の全中で勝つべき理由が更に増えたのかどうか確認するためにスマートフォンを拾い上げたのだった。
††††† 登場人物紹介 †††††
日野可恋・・・臨玲高校1年生。空手・形の選手。結は彼女の演武をひと目見て憧れを抱くようになった。大会での実績はないが、周囲の評価は高い。
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