第121話 令和3年8月4日(水)「わたしを変えた人」
「ドラマ、評判良いじゃない」
マンションの廊下で彼女とバッタリ顔を合わせた。
黒のキャミにスキニージーンズ。
身体のラインがくっきり表れた装いにハッとする。
こちらは仕事帰りで手にコンビニ袋をぶら下げている。
それなりにめかし込んではいるのに彼我の差は明らかだった。
彼女は機嫌が良いようで、わたしに微笑みながら声を掛けた。
芸能界は上下関係に厳しいところもあるが、どこでも同じという訳ではない。
それに、圧倒的に売れてしまえばもう先輩だの後輩だの言えなくなる。
わたしは歳下の後輩に「ありがとうございます」と頭を下げた。
芸能事務所と一概に言っても、モデルに強いところ、バラエティに強いところなど売りは事務所によって異なる。
わたしが所属しているところは役者専門で、これまではベテランの占める割合が高かった。
それが最近中高生の若手の発掘に力を入れるようになり、わたしはその先駆けのような存在だ。
――目の前にいる彼女のせいですっかり蔭に隠れてしまったけれど。
「紫苑も……、映画がヒットすると良いですね」
顔色をうかがいながら名前を呼び捨てにしたが、怒った素振りは見せなかったのでホッとする。
とはいえ昔はタメ口だったのに、いまは自然と敬語が出てしまう。
相手はいまや日本でトップクラスの若手映画女優。
かたやわたしはテレビドラマのレギュラーがやっとの存在だ。
これが主役級なら卑屈にならずに済むところだが、まだその域には達していない。
紫苑はヒットを微塵も疑わない顔つきで「そうね」と応じると、「たまには遊びに来てね」と手を振った。
わたしは貫禄に気圧されて頭を下げる。
彼女は悠然とした態度で、近くの部屋のドアを開けた。
そこは彼女の部屋ではない。
だが鍵は掛かっておらず、すんなり開いた入口から彼女は堂々と中へ入っていく。
それを眺めながら、わたしはその部屋の住人である中学生の顔を思い浮かべる。
――そうか、いま彼女が紫苑のお気に入りなんだ。
わたしは声を出さずにそう呟いた。
初瀬紫苑と初めて会ったのは彼女がまだブレイクする前だ。
わたしより1学年下だった。
後輩ができたと喜ぶよりも強力なライバルが出現したという気持ちが強かった。
それでもここまで駆け上がるとは夢にも思っていなかった。
大人びた印象の美少女。
芸能界では珍しくはない。
わたしと同じ子役出身だが、子役での実績ではわたしが勝っている。
「あなた可愛いわね。私、レズビアンなの。よろしくね」
初対面の挨拶でそう言われ、わたしは呆気に取られた。
その場にはわたしたちを担当するマネージャーもいた。
助けを求めるようにわたしはマネージャーに視線を送ったが、「おおっぴらに話さないでください」と言われただけで終わってしまった。
当時中学生だったわたしは実家暮らしをしていた。
しかし、紫苑は入所と同時にいまのマンションで独り暮らしを始めた。
事務所はワンフロアを借り切って今後地方から出て来た女優志願の少女たちをここで生活させるとアナウンスした。
それを聞いた時はふーんと思っただけだったが、その後の展開を考えれば紫苑のためのハーレムを事務所が用意したんじゃないかと疑ってしまう。
事務所は育成に力を入れていたので演技指導などかなり厳しい訓練が課されていた。
ほかにも役者としてプラスになりそうなことは次々とやらされた。
紫苑も同じ苦労を強いられるのかと思ったのも束の間、彼女は映画の役をつかむとあれよあれよといううちにスターダムをのし上がって行った。
主人公の妹というたいして出番がない役だと聞いていたのに、公開時にはポスターに大きく顔が載り、公開後はメインヒロイン以上に印象的な存在となっていた。
あの映画を見た人の多くは彼女の映画だと感じただろう。
国民的スターとなったあとのことは語るまでもない。
映画産業が危機を迎える中でも彼女は希望の星として扱われ、昨冬の映画も評価はともかく興行収入はなかなかのものだった。
そして満を持しての今回の映画だから周囲の注目度も高い。
わたしならプレッシャーで押しつぶされそうだが、彼女はそれを楽しむかのように振る舞っている。
わたしは気を取り直して廊下の先にある自分の部屋に向かう。
中学を卒業してから住み始めたのでもう1年半近くになる。
わたしは部屋の灯りをつけ、テーブルにコンビニ袋を放り投げるように置こうとして手を止めた。
フッと息を吐いてカメラが回っていると思いながらビニール袋をテーブルに載せた。
こんなことが役に立つのかは分からない。
それでも、元気良くだとか疲れている感じでだとかイメージしながら何度か繰り返した。
……馬鹿みたい。
丁寧に手と顔を洗う。
指先ひとつとっても商売道具だ。
鏡の前で肌の具合をチェックし、それからリビングのソファにドスンと腰を落とす。
こういったことはこの事務所に入った時にマネージャーから注意を受けた。
しかし、その頃はまだ自覚に乏しくかなり適当だった。
意識が変わったのは紫苑の日常を知ってからだ。
わたしがこのマンションに引っ越した頃、紫苑はブレイクして時の人となりつつあった。
一方で危なっかしい発言が多く、事務所はそれに手を焼いていた。
だから教育係的な役割をわたしに期待し、彼女の私生活の面倒を見るように頼まんできた。
レズビアンを公言する人物にあまり近づきたくはなかったが、実績の乏しいわたしにはとても断れる雰囲気ではなかった。
わたしの高校受験もあって彼女とはしばらく会っていなかった。
有名になってどう変わったのか気掛かりだった。
引っ越しの挨拶も兼ねて恐る恐る彼女の部屋のチャイムを鳴らす。
わたしが「久しぶりね」と笑顔を見せると、「あら、事務所に言われて来たの?」とこちらの行動はお見通しという顔になった。
「でも、良かったわ。スキャンダルになるからってほかの子たちは遠ざけられてしまったの」
「わたしはそういうつもりで来た訳じゃ」と慌てるこちらの話を聞かず、「大丈夫よ。優しくするから」と強引にわたしの手を引っ張る。
「やめて!」と叫ぶわたしに、紫苑は「成功の秘訣を聞きたくないの?」と上目遣いに問い掛けた。
抵抗の動きが止まった隙を突いてわたしを部屋の中に引きずり込むと、「安心して。手取り足取り教えてあげるから」と紫苑は淫靡な笑みを浮かべた。
わたしは彼女の誘惑に負けた。
いまをときめく少女の性的な魅力にではなく、瞬く間に成功をつかんだ彼女の才気に魅入られたのだ。
それからしばらくの間ふたり暮らしを続けた。
学ぶことは多かった。
彼女はプロ意識が凄まじく、自分がこれまでやって来たことがいかに中途半端だったかを思い知らされた。
あらゆる行動が彼女の目指す”初瀬紫苑”を作り上げるためのものだった。
大げさではなく24時間そのことだけを考えているような少女だった。
そんなふたりの蜜月は後輩たちがマンションに戻ってくるとあっさり終了した。
今日は誰それと寝るわと言って別の子を自分の部屋に呼ぶようになったからだ。
彼女にとってわたしや後輩たちはただの閨の相手に過ぎないのだろう。
マスコミにばらすと脅しても、彼女は「構わないわ。本当は公表したいと思っているもの」と微笑むだけだった。
その後はこうして会えば挨拶するだけの関係となった。
わたしはなかなか芽が出ずに苦しんだがようやく結果がついて来るようになりつつある。
ただこのまま芸能界で生き残れるかどうか。
事務所との契約だって続く保証はない。
紫苑ほどでなくても、世間に顔と名前が知られる程度には売れたい。
そして、この役者という楽しい仕事をもっと続けていきたい。
わたしはカロリー計算のみで選んだコンビニ弁当を食べながら、あえて声に出して願った。
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