第107話 令和3年7月21日(水)「東京オリンピック」倉持碧

 東京オリンピック2020がいよいよスタートした。

 開会式は2日後だが、すでに各地で競技が行われている。

 招致が決まってから様々なことが起きた。

 特に延期が決まって以降はこの大会の開催に関して様々な声が上がっている。


 スポーツに携わるひとりとしてはここまでたどり着けて良かったと素直に思う。

 アスリートたちがこの日を目指してどれほどの努力を積み重ねて来たのか。

 それを思えば無観客とはいえ自分の力を発揮できる場を与えられたことに安堵する。

 一方で、オリンピックに反対する人々の気持ちも分かる。

 感染拡大への不安、アスリートばかりが優先されることへの不満、何より自分たちの声が相手にされないことへの無力感がひしひしと伝わってくる。

 経済や政治のことが前面に出て、本来メインで語られるべきスポーツの価値や意義がおざなりにされているようにも感じる。


「暑いですねー」


 もの思いにふけっていると、スポーツドリンクをグビグビ呑み干した赤川さんが嘆息した。

 パッと見、少年ぽい出で立ちだが、私とそう変わらない年齢の女性だ。

 私の所属するNPO法人F-SASの同僚であり、現在東京オリンピックの競技会場の設営スタッフとして一緒に働いている。

 この休憩室は冷房が効いているが、私たちは荷物の搬送などがあって外に出る時間も結構あった。


「東京も暑いですね」


 私は数日前から東京に来ている。

 普段は関西を拠点にしていて、コロナ禍もあって最近は東京に来る機会はほとんどなかった。

 久しぶりの東京だが遊びに行く余裕はなく、大会期間中はほとんど働き詰めになりそうだ。


 私は鞄から日焼け止めを取り出し腕に塗る。

 屋内作業がメインだと思って油断していたが、予想以上に肌にダメージを受けそうだ。


「私は陸上なので選手時代から真っ黒ですよ」と赤川さんが笑う。


 その細い腕は少年のように焼けている。

 とても健康的だ。

 とは思うものの、私は染みの方が気になってしまう。


「赤川さんの若さが羨ましいです。最近は何かと歳を取ったと感じることが多いですから……」


「そんなに変わらないじゃないですか」


「見た目が全然違いますよ」


「子どもっぽく見られて困ることも多いんですよ。その前に女性に見てもらえないことも多いですけど……」


 彼女にも彼女なりの苦労があるのだろう。

 タオルで汗を拭いながらまだ学生のように見える顔をしかめた。

 私は「気に障ったらごめんなさい」と謝り、彼女は「こういう時に大人の対応ができないあたり、まだまだ子どもだと思います」と社会人経験の乏しさを嘆いた。


「サボってないで、仕事をしてください」


 休憩室のドアが開くなり私たちのグループのリーダーに当たる山内さんが顔を出した。

 彼女は私たちより一世代歳上である。

 仕事熱心なのは誰もが認めるところだが、自分の基準をグループのメンバー全員に当てはめようとする傾向があった。


 私は赤川さんと顔を見合わせてから「分かりました」と席を立つ。

 感染症対策のため暑くてもマスクを外せないし、水分補給も休憩室でないとダメと言われてままならない状況だ。

 赤川さんは屋内にしかいないので外の暑さを理解していないのだろう。

 文句のひとつも言いたいところだが、ここはグッと我慢する。


 大会本番が間近に迫り、競技会場では設営の最終調整とともに出場する選手や関係者による練習や確認作業が行われている。

 海外の選手にとってはぶっつけ本番のような大会となる。

 準備をしっかり行うことでパフォーマンスを向上させたいところだが、行動は厳しく制限されていた。

 そのため彼ら彼女らはかなりピリピリと神経を尖らせている。

 そんな選手たちを迎えるスタッフ側もおもてなし精神よりも感染対策に逸脱がないか監視しているような有様だ。

 和やかとは言い難い空気の中で、慌ただしく様々な作業が並行して進められていた。


「それ邪魔だから、倉庫に戻しておいて」


 いま苦労して運んできたばかりの機材を、別のラインのリーダーから戻すように命じられた。

 私は「確認します」と持って来るよう命じた人をグルリと会場内を見回して探すが姿がない。

 相手は「とにかくここにあると邪魔だから」の一点張りで、仕方なく機材を通路まで運ぶ。

 山内さんを見掛けたので相談すると「言われた通りにしなさい」との言葉が返って来た。

 運ぶのは自分じゃないからねと思いながらまた倉庫へ運搬していく。


 スタッフは寄り合い所帯だ。

 会場関係者、競技関係者、行政から参加している人、ボランティアスタッフなど多岐にわたり、困ったことに指揮系統がはっきりしていない。

 わずか数日の参加で、これがお役所仕事かと思わされるケースに何度も遭遇した。

 普段自分がいかに恵まれた環境で仕事をしているかと思い知るいい機会だった。


「お疲れ様でした。お先に失礼します」


 私と赤川さんが山内さんに挨拶すると「もう帰るの?」とギロリと睨まれた。

 リーダーの自分より先に仕事を終えることが気に食わないらしい。

 毎日繰り返されるやり取りにウンザリしながら、「そういう契約ですから」と返答する。

 彼女は「ほかのボランティアさんは最後まで残って手伝ってくれるのに」と非難がましい言葉で圧をかけてくる。

 私は「頑張ってくださいね」とニッコリ微笑み、彼女に背中を向けた。


「良いんですか?」と赤川さんは心配顔だ。


「自分から無駄に仕事を増やすタイプのようですから相手にする必要はないでしょう」


「でも、大会に間に合わなくなるんじゃ?」


「多少の不備があっても競技は滞りなく行えますよ」


 完璧な準備を目指しているから、やたらと細かな部分に力を注いでしまう。

 そんなところにこだわったところでたいした影響はないというのに。

 私たちが気をつけなければならないことはほかにある。

 本番ではどんなに準備を重ねていても思わぬ事態が発生する。

 そこでどう対処するのか。

 スタッフが考えておかなければならないのは本来そこだろう。


「そうですね。余力を残しておくことは大切ですね」と私の説明に赤川さんは納得してくれた。


 同じことは山内さんにも言ってはあるが、彼女は耳を貸そうとしなかった。

 休むことの重要性を理解してくれない人を何度も説得する気になれず、その後は私自身の判断で動くようにしている。


「それに、しっかり食べて明日のために英気を養わないと」


 本当は一杯引っ掛けたいところだが、緊急事態宣言が出ているいまそれは望めない。

 偉そうなことを言っておいてウイルスを会場に持ち込んだなんてことになったら目も当てられないので人一倍警戒する必要があった。


「大会が終わる頃にはワクチンの効果が十分に出ているでしょうから、ささやかな打ち上げをしたいですね」


「溜まっているものを爆発させたいなあ。ああ、飲んで歌って騒ぎたい」と私の口から本音が漏れる。


 赤川さんは楽しそうな表情で「代表や額田さんも呼んで」と言葉を添えるが、私の顔は凍りつく。

 そのふたりの前では酔えそうにない。

 私は笑って誤魔化しながら、そのふたりを呼ばないで済む理由をフルスピードで考えねばならなかった。




††††† 登場人物紹介 †††††


倉持碧・・・F-SAS職員。大手スポーツ用品メーカーから出向中。関西在住で西日本方面を担当している。


赤川美穂・・・F-SAS職員。元陸上のトップアスリート。


額田ぬかた誉・・・F-SAS職員。スポーツとは無縁だったが桜庭との縁がきっかけでこの職に就いた。関東方面の指揮を執る。


日野可恋・・・F-SAS共同代表。通常「代表」と言えば彼女を指す。高校生だが実務に精通している。

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