第108話 令和3年7月22日(木)「理事長」北条真純

 彼女と初めて会ったのは5年以上前のことだ。

 ボサボサの髪、化粧気のない顔、着心地だけで選んだようなだらしのない服装。

 決して目を合わせようとせず、ボソボソと小声でこの世を呪う言葉ばかり並べていた。


 絵に描いたような世間知らずだったが、母親から莫大な財産を引き継いだ直後で彼女の周りには有象無象のハイエナたちが集まっていた。

 そして、私もまたそのハイエナのひとりに過ぎなかった。

 当時の私は彼女を絶好のカモと見ていたのだ。


 彼女の母親は突然この世を去ったが非常に優秀な方だったようで相続税への対策もしっかり行っていたようだ。

 彼女自身も性格に難はあるものの慎重に立ち回りハイエナたちの襲撃を防いでいた。

 もっとも、実際は対人恐怖症が功を奏したと言うべきかもしれない。

 引き籠もって誰も相手にしないことでこの嵐をやり過ごそうとしていた。


 だが、その間に母親の良き理解者だった学園長が臨玲高校を我が物としていた。

 彼女は理事長の座を継いでいたが、ほぼお飾りのような状態だった。

 やがて学園長は理事長を追い落とすことを目論むようになった。


 ほかのハイエナたちが諦めたあとも私は粘り強く彼女の元に通っていた。

 歳下で同性だったことがプラスに作用したのだと思う。

 とにかく下手に出て彼女に認めてもらえるよう徹しているうちに少しずつ信用を勝ち得た。

 そして彼女の経験不足を補うアドバイスを繰り返すうちに引き抜きの申し出があった。


 条件は破格。

 同世代の稼ぎ頭の年収よりも一桁多い。

 彼女の財産をむしり取って会社を儲けさせることよりも、私はこの好待遇を選ぶことを決めた。

 外資系に長く勤める気はなかったので迷いはなかった。


 その地位は決して安泰とは言い難い。

 圧倒的な学園長の攻勢の前に理事長の巻き返しは絶望的な状況だった。

 しかし、そこに相手の油断があった。

 私と理事長は二人三脚で学園長派を打ち破っていった。

 会社勤めの時とは違い、私の権限は遥かに強化されかなりの自由度を持って事に当たることができる。

 こんなに楽しいことはない。

 たとえ失敗しても転職すればいいというくらい軽い気持ちで挑めたことも大きかった。

 雇い主への忠誠心よりも自分の実力を発揮する喜びに満ち溢れ、寝る間も惜しんで働いたのだ。


 その結果、学園長を失脚させ私たちは凱歌を挙げた。

 めでたしめでたし。

 物語ならそれで幕が下りるところだが、現実には続きがある。

 強大な敵がいれば一致団結できていても、いなくなれば自分たちの利益が優先されて小競り合いが発生する。

 残党勢力を片づけることもままならず、事態は混迷を迎えていた。

 それが今年4月の現状認識だったと言えるだろう。


「はぁ~」


 私は大きな溜息を吐く。

 世間は今日から4連休だ。

 私も久しぶりにまとまった休みを取ることができた。

 だが、気掛かりが私の心を覆い尽くす。


 部屋でゴロゴロしているのが良くないと思うものの、出掛ける気力も湧いてこない。

 これなら仕事をしていた方がマシだった。


 ……こういう思考回路がいけないのだろう。


 社会人になってから友人ができず、学生時代の知り合いとも疎遠になっていった。

 親は早く結婚しろとしか言わないので、そちらとも音信不通の状態だ。

 仕事が恋人などと思うこともあるが、いつまでこんな生活が続けられるのかという不安もある。


 頭に浮かぶのは理事長、椚たえ子の顔だ。

 以前よりも人間味が出て来た彼女はいま恋愛にハマっている。

 それも小学生でも分かるような明確な罠に掛かって。

 相手はライバルである九条山吹氏が通うホストクラブの店員だ。

 こんな見え見えな手に引っ掛かるとはと呆れてしまったが、人の心とは計算だけで成り立つものではないのだろう。


 男性相手に口もきけなかった理事長がメロメロになっている。

 その男性が猜疑心の強い彼女の懐に入り込んだことには舌を巻く。

 理事長を中心に動いていた案件の進捗が滞り、徐々に危険な水準に入りつつある。

 このままだと理事会で解任されるのは時間の問題だ。

 最近は小言を言われるのが嫌で理事長は私を避けている。


 もっとハッキリ駄目だと止められたら……。

 だが、私たちはあくまでも上司と部下の関係だ。

 どこまでプライベートに口を出すかは難しい問題であり、どうしても躊躇う気持ちが先に立ってしまう。

 彼女の解任が私の更迭に繋がるならもっと必死になったかもしれない。

 しかし、理事会の主流派が次の理事長を選任した場合引き続き主幹を務めるよう打診されている。

 山吹氏も自分の息がかかった人物を立てようとしているようだが、多数派工作に成功してはいないようだ。


 主流派の中にはより優秀な人物を理事長に据え、OG会を排除して臨玲の改革を推し進めるべきだという意見がある。

 現理事長は優秀だが扱いにくい人物であり人望に欠け改革に負の影響を与えるという認識もある。

 これまで私は臨玲高校の利益のためという大義名分で各理事を説得してきたが、その言葉はもはや通用しなくなった。


 それでも、胸の中にもやもやしたものが残ってしまう。

 すべてをビジネスと割り切って生きてきたのに。

 仕事優先で生きてきた私はこういう時に相談できる相手がいない。

 私は自分のスマートフォンのアドレス帳を指でなぞった。


『突然のお電話失礼いたします』


『そんなにかしこまらなくて大丈夫ですよ』


 相手の女性は穏やかな声で私の非礼を不問にしてくれた。

 私が『少しお話を聞いていただいてもよろしいでしようか?』と話すと、『電話でよければ伺います』と返答があった。

 それで構わないと告げてから私は切り出す。


『小野田先生、友だちって何でしょう?』


 なんとも青くさい質問だ。

 大のおとなが口にするような言葉ではない。

 しかし、中学時代の恩師になら……。


『それは難しい問いですね』と極めて真面目な声が返ってきた。


『その言葉は使う人によって定義は異なるでしょうし、とても幅のあるものだと思います。ただ、ある人物を友だちかもしれないと思ったなら、すでにその人はあなたにとっての友だちなのではないでしょうか』


『……ありがとうございます。吹っ切れたような気がします』


『そうですか』という相づちには優しさが含まれているような気がした。


 私がなおもお礼の言葉を重ねようとした時、『素直に、自分の心に従ってみることがあっても良いと思います』と彼女は言葉を添えた。

 いちばん言って欲しいセリフを言われた気がして、私はスマートフォンを顔に当てながら何度も頭を下げた。


 電話を終え私は頭を仕事モードに切り替える。

 ノートパソコンを開くとプレゼンの資料を作り始めた。

 相手は高校生だが、臨玲の理事を務める人物だ。

 彼女を納得させる戦略を用意して味方につける。

 それが理事長を救うもっとも確率の高い方法だ。

 私は時間を忘れるほど一心不乱にキーボードを叩き続けた。




††††† 登場人物紹介 †††††


北条真純・・・臨玲高校主幹。非常に有能な仕事人間。理事長の右腕と周囲から見られている。


椚たえ子・・・臨玲高校理事長。母親は先代の理事長。この高校のOGでもある。


九条山吹・・・臨玲高校OG。母親は臨玲理事のひとりでOG会会長を務めている。現理事長とは高校時代クラスメイトだった。


小野田真由美・・・NPO職員。元中学校教師で理科を教えていた。北条や可恋はかつての教え子。


日野可恋・・・臨玲高校1年生。生徒会長。先日理事に就任した。理事長派と見られることが多いが主流派に近い。

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