第104話 令和3年7月18日(日)「これが愛」大島彼方
空手の形は流派によって異なる。
私が身につけた形は師匠が編み出したものだ。
もちろんほかの空手の形と共通する部分もあるが、かなり独特なものだった。
その形を磨き上げるという選択肢もあった。
師匠の空手が私の空手なのだから。
だが、師匠から直接指導を受けられない状況では限界も感じる。
撮影した動画では伝わらない気がするし、高齢の師匠にスマートフォンやパソコンを使ってリアルタイムに見てもらうというのも難しい。
同じ東京といえど23区内と小笠原とでは果てしなく遠いのだ。
悩んだ末に三谷先生から形を学ぶことにした。
そのために他流派の空手を学ぶことは悪いことではない。
私も彼女を見習いたいと思った。
それに伴って道場の移籍を考えている。
現在所属しているのはフルコンタクト系のところだ。
師匠の紹介で入門したものの、はじめちゃんと仲良くなった以外は馴染めたとは言い難い。
中学生まではただ師匠に勝つことだけを目標にしてきた。
ただ強くなりたかった。
理由なんてない。
誰かから凄いと思われたいとか大会で優勝したいとか、まったく頭になかったのだ。
しかし、こちらに来て私のそんな考え方が少数派だと知った。
もちろんほかの考え方が間違っているという訳ではない。
どんな考え方で取り組もうと自由だし、やはりこの世界では強さが正義だから強い人の考えが正しいと言うこともできる。
そう、強ければ悩むことはなかった。
それなのに私は試合において実力を発揮できなかった。
師匠から学んだ殺人拳は時にフルコンタクトのルールからも逸脱してしまう。
かといって力をセーブして戦えるほど周囲の空手家たちは弱くはない。
組み手での強さを追い求めることに疑問を抱いた私は原点に立ち返った。
試合での勝ち負けではなく、どんな相手にだって立ち向かえる強さを極めたいと思った。
米兵相手に素手で戦おうとした師匠の空手を受け継ぐのだから。
そこで形に改めて注目したのだ。
小笠原では組み手が楽しくて形は退屈だと感じていた。
しかし、いま自分の空手を見つめ直すには形に取り組む方が良い。
フルコンタクトにも形の試合はあるが伝統派ほど盛んではない。
形を重視するのなら伝統派空手が適している。
この道場には指導に定評のある師範代の三谷先生がいる。
それに何と言っても
問題は距離だ。
東京と神奈川は隣県だから近いとはいえ学校のある平日に通うのは厳しい。
いまは週末だけ来ているが、もっと本格的に稽古を受けたかった。
「夏休みはどうされるんですか?」
彼女は朝稽古以外に参加することは稀なので、母屋で一泊させてもらって日曜朝の稽古に参加した時くらいしかお目にかかれない。
その朝稽古が終わったあとの貴重な時間がいまだ。
「小笠原に帰る予定です。どれくらいの日数になるかはまだ分かりませんが……」
ますます美人で大人っぽくなった
本当は帰りたくない。
夏休み中はここに泊めてもらい毎朝
もっと仲良くなって手取り足取り指導をしてもらえたらと熱望している。
とりあえず毎日
だが、高校生である以上、親の言いつけは守らなければならない。
8月の大部分は実家に戻って親戚付き合いや家の用事をするように言われている。
師匠と会えることは嬉しいが、3日もすれば
「この夏はキャシーがいないので稽古に集中できそうなのに残念ですね」
キャシーはインターナショナルスクールが夏休みに入るとすぐにアメリカに帰国した。
姉がアメリカの大学に通うそうで、家族全員で久しぶりの一時帰国となった。
「日本に戻るのはオリンピックが終わる頃でしたね」
「そこから2週間の自宅待機となるので夏休みが終わりますね。どうやっておとなしく家に居続けてもらうかが悩みの種ですが」
キャシーだけでなく、はじめちゃんも大会が近いので今日はこちらに来ていない。
それに、
ここは押しの一手だ。
「あの、形の稽古を見てもらえませんか?」とお願いしてみた。
「すみません、オリンピック直前で忙しくて」とアッサリ断られる。
……おのれ~オリンピックめ。
私と
いやまだだ。
オリンピックが始まれば
この機会を逃してはいけないのだ。
そう思った私は咄嗟に「師匠直伝の形をお見せしますから」と口にした。
奥義をまとめたものなので本当は見せちゃいけないのだが、背に腹は代えられない。
私の必死の足掻きに立ち去りかけた
目を細め、「いいんですか?」と私に尋ねる。
私は心の中で師匠に手を合わせて謝りながら「もちろんです」と微笑んでみせた。
人目を憚るため母屋の奥にある板張りの部屋に案内された。
何度も母屋に泊めてもらったのにこの部屋のことは知らなかった。
道場ほど広くはないが室内には何も置かれていないので試合場よりやや狭いくらいか。
あまり使われていない部屋のようで木造建築特有の鼻につく匂いがしたが、床だけは綺麗に磨き上げられている。
興味津々といった目をした
全部見せちゃマズいかなと思ったが、そんなことより張り切る気持ちの方が強かった。
師匠から教わった形の中でもずば抜けてユニークな動きをするこの演武は小さな頃から何度も何度も繰り返し行ってきた。
基本の形は退屈だが秘伝と言われるだけでワクワクしてしまう。
世界でも何人かしか知らないものなのでそれも子ども心をくすぐった。
喜んでくれるだろうか。
褒めてくれるだろうか。
私は演武を終えるとドキドキと胸を高鳴らせた。
「ここって、本当はこうなんじゃないですか?」
いきなり中盤のところの顔の向きを指摘される。
一度見ただけで
「いえ、あっています。実はこの動きは……」と解説しかけてハタと気がついた。
「これ以上は師匠が許可しないと話せません!」
奥義の形を見せただけで破門されてもおかしくないのに、その真髄について語ったら口封じをされても文句を言えないレベルだ。
しかし、
「ここの足捌きなのですが」とか「この目くらましの技って」とか「肘打ちの威力を増す方法は……」とか答えられない質問ばかり問い質してくる。
そのたびにペコペコと頭を下げたが、いくつか口を滑らす一幕もあった。
しまいには「
私が秘伝を明かしたことを師匠には黙っていると確約は取ったものの、なんだか嫌な予感が頭を過ぎる。
冷たい汗が背中を伝ったが、もう取り返しはつかない。
続いて私が練習中の形を見てもらう。
私が形を間違うと
下手をしたら怪我をさせかねない。
どうしても緊張感から動きが硬くなるが、「もっと強く」「もっと激しく」と鋭い叱責の声が飛んできた。
その声に背中を押されるように私は無我夢中で演武を行った。
徐々に身体が動くようになり、なんだか師匠を相手にしているような感覚に陥る。
ダンスのパートナーと言ってもいいかもしれない。
呼吸を合わせて決められた通りに動く。
まるで互いの心を理解し合っているかのように。
あるいは、私のすべてを受け入れてもらっているように感じる。
これを愛と呼ばずに何と言おう。
私は頬を赤く染めながら渾身の演武を続けた。
「はぁ、はぁ、はぁ、いかがでしたか?」
私は息を切らしながら両手を膝に当てた。
顔だけはなんとか
「短期間にここまで上達するのはさすがです。ただもっと細部まで意図を持った動きが必要です。いくつか雑だと感じたところがありました」
そう語った
動きを見せながら教えてくれるのはありがたいが、こんなに一度には覚え切れない。
「今日はこのくらいにしましょう」のひと言でようやく私は肩の力を抜く。
私から教えを請うたのに指摘を直せなかったのでは私の株が下がってしまう。
忘れないよう頭に刻み込もうとしている私を
反則だ。
このままだと頭の中が真っ白になりかねない。
「オリンピック開幕後は朝稽古に参加することが難しくなります。その間、彼方さんは自分の力で形を磨いていくのが良いと思います。稽古を頑張ってください」
「えっ!」と声が漏れた。
だって、オリンピック期間中に
オリンピックが終わった頃には私は小笠原だ。
これでは夏休み中に会えるのがあと数回ということになってしまう。
私は我慢できずに涙を浮かべて
それなのに
またも驚きの声が口から漏れそうになる。
いまの動きって先ほど見せたばかりの奥義の足捌きだったのでは。
さすがは
「後片付け、よろしくお願いします」と
そして、そそくさと
私の「
奥義の対価がこれではあんまりです!
頭を抱えながら私は板間の雑巾掛けを器用にやってのけた。
その床には私の汗と涙が染み込んでいた。
††††† 登場人物紹介 †††††
大島
日野可恋・・・高校1年生。大阪出身。伝統派空手の形の選手。関東に引っ越しする際はこの道場を目当てにこの地を選んだ。全国レベルの実力の持ち主だと周囲からは認識されているがめぼしい大会に出場した経験はない。
キャシー・フランクリン・・・16歳。この夏G9に進級する。令和元年の夏に来日し空手を始めた。それまではレスリングの選手だった。180 cmを越える巨体から繰り出すパワーと超人的なスピードを持つ。可恋のことを師匠と慕っている。
三谷早紀子・・・道場師範代。自身も優れた選手だった。アメリカでの指導経験もあり、女子選手への指導に定評がある。面倒見の良い性格の持ち主。
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