第103話 令和3年7月17日(土)「油断大敵」土方なつめ
梅雨が明けた。
そして、私が初めて体験する東京の夏がやって来た。
幸いと言うべきかテレワーク中心だったので、これまで暑さも雨もあまり気にせずに済んでいた。
ただエアコン頼みの生活も初めてのことで、なんだか不健康のようにも感じてしまう。
仕事の時はそうも言っていられないが、休みの今日はエアコンを使わずに過ごすことにした。
「えっ、どうしたんですか?」
チャイムを鳴らし、すぐにドアを開けて入って来たマイハニーこと
いつも不用心だと注意されるが女性専用マンションだから油断して私は玄関の鍵を掛けずにいることが多い。
今日はそれがラッキーだったと言えるだろう。
「駄目ですよ、熱中症になっちゃいますよ!」
フローリングにうつ伏せになっていた私にララちゃんが慌てたように駆け寄ってくる。
窓を開けているのに室内は熱気が充満していた。
床ですら生暖かく不快なほどだ。
私は横たわったまま顔だけを彼女の方へ向ける。
彼女は心配そうな顔で私の横にしゃがみ込んだ。
……しまった。
気を回す余裕がなかったのか彼女のスカートの中が丸見えだ。
それに気づかずララちゃんは赤面する私の額に手を当てた。
顔を背けなきゃと思うものの、ほんのり冷たい彼女の手が心地よくて頭を動かせない。
それに、本当に熱中症気味なのかぐったりして身体に力が入らなかった。
彼女は立ち上がるとベッドの上に置いたままのエアコンのリモコンを手に取り操作する。
エアコンの稼働音が激しく轟いた。
開けたままだった窓を閉め、次に冷蔵庫のところへ行き躊躇いなくそれを開ける。
500 ccのペットボトルのスポーツドリンクを取り出して持って来てくれた。
「起き上がれますか?」
彼女の声に肘を使って上体を起こす。
その間に彼女はキャップを開け、私の口元にペットボトルを添えた。
冷たい液体が渇いた口の中に流れ込まれる。
ララちゃんは緩やかな角度で私の口に注いでいたが、それだけでは足りなく感じた私は右手を伸ばして彼女の手の上からペットボトルを握った。
左手の肘で上体を支えながら上を向きペットボトルをグイッと持ち上げる。
勢いが増したのはいいが、調整に失敗したようだ。
飲み切れなくなって、だらしなく零してしまった。
「ああっ! 大丈夫ですか?」
私は右手のペットボトルに注意しながら床に背中をつける。
水分補給ができたことで持ち直した感覚はある。
だが、口の周りがべとついて気持ちが悪い。
思わず着ていたキャミソールの裾を左手でグイッと引き寄せて拭った。
「あー、駄目ですよ」とうろたえたような声が聞こえる。
単にはしたないだけかと思ったら、カップ付きキャミソールがめくれて胸元が全開になっていた。
ただでさえ汗まみれになっていたキャミソールでは碌に綺麗にならず、スポーツドリンクも吸ってベタついてしまう。
「着替えないとですね。その前に身体を拭きましょう」
そこまで頼るのは悪いと思い「シャワーを浴びてくるよ」と提案したが「まだフラフラなんじゃないですか? 危ないですよ」と指摘された。
確かに転倒でもしようものなら大惨事だ。
真っ裸で救急車に乗る姿は想像したくない。
「ごめん。東京の暑さを甘く見てた」
私は北国育ちではあるが体力には自信があるので油断していた。
それに7月に入ってもそこまで気温は上がらず、エアコン暮らしもあって身体が暑さに慣れていなかった。
そんな中で調子に乗って筋トレをしていたらこんな事態に陥ってしまったのだ。
なんとか起き上がり、手伝ってもらいながらびしょ濡れのキャミソールを脱ぐ。
ショーツ一枚の姿になってしまった私は胡座をかいて座り、彼女から受け取ったタオルで身体を拭き始めた。
「背中、拭きますね」と彼女は背後に回ってタオルで汗を拭ってくれる。
「こんなことまでしてもらって……。命の恩人だよ」
「大げさですよ」
「服、汚れたりしなかった? そんな綺麗な服なのに……」
爽やかな淡いブルーのワンピースは彼女によく似合っていた。
いつも彼女はオシャレだが、今日はとりわけ私好みの素敵な服装だった。
「大丈夫です。気にしないでください」と彼女は明るく言うが、私は反省する。
普段から彼女にはよくしてもらっている。
食事を作ってもらったり、話し相手になってもらったりと彼女なくして私の東京生活は立ち行かないほどだ。
大学の対面授業が再開されて以降、彼女は格段に忙しくなったのにそれでも時間を割いて私につき合ってくれる。
それなのにこんな迷惑まで掛けてしまい、愛想を尽かされないか心配になる。
タオルを替えて下半身を拭く間に彼女は着替えを用意してくれた。
私も普段使いの安物のインナー以外にちょっとだけ値段の高いオシャレな――とはララちゃん基準では言えないだろうけど――ものを少しは所有している。
彼女が出してくれたのはそんな下着で、特別の予定のない日に着るのはどうかと思ってしまう。
もったいないとか贅沢とかいうよりもハレの日以外にそういうものを着る習慣がないのだ。
服だって、彼女が出してくれたのはいつも着ているスポーツウェアではなく以前一緒に買い物をしたものだった。
いつもクローゼットの中で浮きまくっていると感じる一着がいま目の前にあった。
「さあ、着替えてください」と言われ、私は恐る恐る立ち上がった。
ふらつかないことを確認してから、残っていた最後の一枚を脱ぎ捨てる。
彼女は「もう少し恥じらいというものを持った方が良いと思います」と声を上げる。
クロスカントリースキーをやっていた高校時代は一分一秒でも早く着替えることを優先していたのであまり人目を気にしなかった。
同性同士だし、互いに気にするのは筋肉のつき具合とかだったし……。
「ごめん、ごめん」と謝ってテキパキと服を身につける。
部屋の中もすっかり温度が下がり、身体がやや重い程度で体調はほぼ回復していた。
私は天井に届きそうなくらいの伸びをして息を整える。
「お昼は?」と尋ねると彼女は「朝はすみませんでした。朝はご一緒できなかったので、お昼はと思って」とここに来た理由を説明する。
社会人でリモートワーク主体の私と大学生の彼女では生活のサイクルに違いがあって一緒に過ごす機会が減っていた。
そのため、せめて朝食をふたりで摂ろうという暗黙の合意ができていた。
しかし、今朝彼女からもう少し寝ますというメッセージがスマホに届いた。
休日なので少しはふたりきりで過ごせる時間ができると思っていただけに残念だったが、無理強いはできない。
大学は夏休みに入ったものの集中講義があったり、オンライン授業が続いたことに対する補習などがあったりとかなり忙しいようだ。
私は気にしなくていいよと送り返し、雑念を払うために筋トレに精を出した。
東京にまたもや緊急事態宣言が発出された。
これで前回の時のようなふたりだけの世界が戻って来るのではないかという淡い期待を抱いたが、現実は甘くなかった。
彼女の大学生活は順調に前進している。
授業だけでなく友人関係もあの頃とは違い広がっているようだ。
宣言下となっても遊びの誘いはひっきりなしにあるみたいで、新しく築いた交友関係を維持するために彼女は足繁くそれらに参加している。
「どこか食べに行こうか」
折角こんな服を着たのだからと外食に誘う。
すると、彼女は胸元で両手を合わせて「行きましょう」と喜んでくれた。
今日のお礼に食事と何かプレゼントを贈りたい。
そんな気持ちを表明すると「少し待ってください。メイクを直してきます」と浮き立つような足取りで彼女は自分の部屋へと戻っていった。
「……なんだかデートみたい」
そう呟いた私の心も弾んでいる。
この胸の高鳴りは熱中症のせいではないはずだ。
††††† 登場人物紹介 †††††
土方なつめ・・・高卒社会人1年目。NPO法人でオンライン対応をメインの業務としている。オリンピックパラリンピック関連でいつでも動けるように感染対策を厳命されているため入ったばかりのフィットネスクラブも行きにくくなっている。
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