第98話 令和3年7月12日(月)「青天の霹靂」網代漣
それは近くにいなければ聞こえないほど些細な音だった。
パンッ。
ドラマのような派手な効果音はない。
怒鳴り声も悲鳴もそこには存在しなかった。
ただ平手打ちをした少女が全力で駆け出して行き、それによって教室にいたほとんどの生徒が何ごとかと顔を上げた。
わずかに見えた彼女の表情はまるで自分がぶたれたかのようだった。
取り残された方は頬を押さえていた手を何ごともなかったかのように下ろす。
真っ先に駆けつけた凛に「へーき、へーき」と手を振って答えると、彼女もまたフラッと教室から出て行った。
もう授業開始のチャイムが鳴ろうとしていたのに。
チャイムとともに教師が現れた。
学級委員の凛が駆け寄り何ごとかを説明する。
教師は一瞬顔を歪ませてから自習しておくようにと告げて足早に教室を出た。
一瞬の静寂に包まれる中で、「テストの答案を返却してから行けばいいのに」という心ない言葉が聞こえてくる。
その藤井さんの発言は正論かもしれないが、いま言うべき事だとは思えなかった。
やがて教室の中は喧騒に溢れかえる。
女子高生だけのこの空間で黙っていられる子はほんの一握りだろう。
何が起きたのか、ふたりはどういう関係なのか、どこへ行ったのか、そういった推測をみんな思い思いに語っていた。
最初に飛び出して行った少女、岡崎ひよりに対してはわたしの周囲を中心に心配する声が上がっていた。
正直あんなことをする人だと思っていなかったので非常に驚いた。
きっと深い事情があるのだろう。
キッカを中心とするわたしたちのグループの一員であり、穏やかな性格の持ち主だったのだから。
一方、平手打ちをされた側である淀野さんについてはあまり話題に上がっていなかった。
藤井さんとは別の意味で彼女はクラスに馴染んでいない。
いつもひとりでいて、ほかの生徒と関わろうとしなかった。
休み時間は姿を見せないことが多い。
授業が始まっても戻って来ないことがあり、保健室で休んでいるらしいという噂を聞いた。
しばらくして教師が戻ってきた。
ふたりについては手の空いた教師が探していると話し、普通に授業を開始する。
ひよりを心配している一部の生徒を除けば、みんな先ほどの騒動を忘れてしまっているかのような顔で授業に臨んでいる。
それが何だか切なかった。
今日はよく晴れて気温も高い。
休み時間になってもふたりは戻って来なかった。
わたしやキッカはLINEを送ったが反応はなかった。
スマホを持って行ったかも分からない。
さすがに勝手に鞄を漁る訳にもいかず、わたしたちは言葉少なに彼女の帰りを待った。
ジリジリとした気持ちのまま時間だけが過ぎていく。
探しに行った方が良いだろうか。
それとなくキッカの顔を窺うと、「いまは信じて待とう」と彼女は言った。
それは自分に言い聞かすかのようだった。
わたしはそれに頷く。
ひよりがどこにいるか見当もつかない以上短い休み時間で探せるとは思えない。
それでも待つだけということの辛さを痛いほど感じていた。
休み時間の終わり間際に淀野さんがひとりで戻って来た。
何があったのか問い詰めたい気持ちはある。
だが、彼女は被害者だし、わたしたちが責めていいものかどうか。
自分の席に座ったまま淀野さんを凝視するわたしとは異なり、キッカはスッと席を立つと彼女に近づいていく。
ほかのクラスメイトたちは遠巻きに眺めているだけだ。
小声で何か会話を交わしてキッカは戻って来た。
「事情を話すのは構わないけど、本人の口から聞いた方が良いと思うって。言いたくないかもしれないし」
「ひよりの居場所に心当たりは?」とわたしが尋ねると、キッカは「知らないそうだ」と低い声で答えた。
時間が経つにつれて不安が増していく。
学校の出入りは厳重なので、まだ校内にいるはずだ。
ただ高校はかなり広い。
職員室などがある本館や空き教室の多い部活棟に隠れていたらなかなか見つけることは難しいだろう。
外だと熱中症の心配もある。
この学校はあちこちに監視カメラが設置しているという噂がある。
それが事実かどうかは知らないが、こういう時に役に立って欲しい。
事態が動いたのは次の授業――午前中の最後の授業――が終わる直前だった。
担任に連れられてひよりが戻って来たのだ。
一斉に視線が集まり教室に入る際には躊躇う素振りが見られたが、俯いたまま早足に自分の席についた。
いちばん前の席で、わたしの隣りの席でもある。
わたしはのぞき込むように彼女に視線を送ったが、髪に隠れて顔までは見ることができなかった。
授業が終わりひよりに何と声を掛けるか迷っている隙に、日々木さんが彼女に近づいて何か囁いた。
ひよりは頷く。
日々木さんはわたしやキッカに向かって「昼休みは新館に連れて行くね」と告げた。
わたしの隣りの席の少女は戻ってから一度もこちらに顔を向けていない。
いまはまだ時間が必要なのだろう。
キッカは「分かった」と答え、わたしは「ひよりをよろしく」とお願いした。
ひよりが戻ったことで教室内の空気は普段と変わらないものとなった。
淀野さんはいつものようにどこかへ行ってしまったし、これまで目立つことがなかったふたりのトラブルということで話題が続かないのだろう。
「ひより、話してくれるかな」というわたしの呟きにキッカは「さあな」と反応した。
明日からひよりが元のように過ごせるのなら無理に聞き出す必要はない。
ただし、わたしの心の中にわだかまりは残るかもしれない。
彼女は自分のことをそんなに話す方ではない。
母親の再婚で生活レベルが大きく上がって困惑しているという話はするが、そういうネタを持ち出すことで自分の気持ちは見せない人だった。
まあ、わたしだって本心を見せるのは中学時代の親友である真夏相手だけだから他人のことは言えないのだけど。
それにしてもひよりと淀野さんに繋がりがあるとはまったく知らなかった。
悪口でも言われて怒って殴ったという単純なトラブルには見えなかっただけに、少なくともふたりの間にはそれなりの関係があったはずだ。
わたしやキッカに気づかれることなく。
「誰だって言いたくないことはあるだろ。話してくれなくたって、ひよりは友だちだ」
わたしの呟きから随分時間が経ってからキッカがそう宣言した。
キッカらしくて、わたしは「そうだね」と同意する。
午後の授業が始まる間際に自分の席に戻ってきたひよりに、わたしとキッカは昼休み中に書いた手紙を渡した。
LINEでもいいかと思ったが、わたしは手紙を書きたい気持ちだった。
手紙はわたしの趣味であり、中学時代からこまめに書いている。
キッカも書きたいと言うので便箋をあげ、ふたりして頭を悩ませたのだ。
わたしが書いた内容は『元気出してね』という言葉を中心とした些細な内容だ。
授業中に様子をうかがっていると、彼女がこっそりその手紙を読んでいるところを見た。
伝わったかどうかは分からなくてもそれだけで嬉しい気持ちになることができた。
終わりのホームルームの最後にひよりが立ち上がり、みんなの方を向いて「お騒がせして申し訳ありませんでした」と深々と頭を下げる。
それで表向きは終わったことになった。
ホームルームの終了後、ひよりはわたしたちに向き合い「心配を掛けてごめんなさい」とだけ言って飛ぶように帰っていった。
キッカやリカたちと外に出ると空は雲に覆われていた。
一雨来そうな湿った空気の匂いがする。
顔を上げていると空に閃光が走る。
遅れて、つんざくような轟音が耳に飛び込んできた。
それを見て、わたしは今日の出来事が「青天の霹靂」という言葉にピッタリだったと思い至った。
††††† 登場人物紹介 †††††
飯島
岡崎ひより・・・臨玲高校1年生。母の再婚で裕福な家庭に環境が変わったが、いまだにそれに慣れていない。そのためキッカや漣とつき合う方が気が楽。
淀野いろは・・・臨玲高校1年生。私立中学出身。保健室によく出没する。
西口凛・・・臨玲高校1年生。クラス委員。フットワークが軽くどこにでも顔を出すタイプ。
藤井菜月・・・臨玲高校1年生。ひと言多い性格はなかなか直らない模様。
加藤リカ・・・臨玲高校1年生。最近はキッカたちと行動することが増えている。
日々木陽稲・・・臨玲高校1年生。誰にでも優しく親切。良心的存在だと認識されている。
田辺真夏・・・高校1年生。漣の中学時代の親友。いまも手紙やSNSでのやり取りをしている。
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