第85話 令和3年6月29日(火)「悪役令嬢」香椎いぶき

 夜半から降り続いた雨は小降りになったものの朝になってもまだ止まない。

 わたしが暮らす下宿には自転車通学の学生が多い。

 カラフルなレインコートが次々と下宿から飛び出して行く中、わたしは地味な白のレインコートに身を包み学校へ向かった。


 臨玲はお嬢様学校ではあるが毎日車で送り迎えしてもらえる生徒はそんなに多くない。

 だが、雨の日は例外だろう。

 いつもより正門をくぐる車の量は増えている気がした。

 それを横目にわたしは通用門から入ったところにある自転車置き場を目指す。

 自転車通学をするのはお嬢様と呼べない生徒ばかりなので、そこに並ぶ自転車も大半が市販のよくあるモデルだ。

 その中に、見るからに高級そうな海外製自転車があった。


 わたしは自分の自転車を駐めながら周囲を見回す。

 残念ながら近辺に持ち主の姿はなかった。

 3ヶ月近くなる高校生活の中でこの自転車の所有者を何度か見掛けたことがある。

 スラリとした長身に、ちょっとワイルドな風貌。

 それでいて人好きのする雰囲気があって興味を惹かれた。

 スカーフの色から3年生と分かったので声を掛けることはできない。

 ただ彼女が軽やかに自転車を漕ぐ姿は何だか開放感があって目を奪われた。


 傘をさすほどではなかったので、屋根のある自転車置き場から駆け足で校舎に向かう。

 そして校舎にたどり着くとフーッと息を吐いた。

 教室ではなくあまり使われていないトイレへと直行した。

 ここは教室に向かうルートから少し外れているのでこの時間に人が来ることが少ない。

 自転車で乱れた髪や服装を直すためにわたしはここをよく利用していた。


 入学前はもっとギスギスしたイメージを持っていたが、臨玲は普通の高校とそう変わらない印象だった。

 同じ下宿の瑠菜から聞く他校の話と比べても、ごく一部の生徒を除けばたいして変わらないように感じる。

 ある意味、家のランクという簡単には覆せないヒエラルキーが基準だとハッキリしているので、余計な駆け引きに気を使わなくて済むくらいだ。


 それでも女子の集団の中に入る時は緊張する。

 戦闘モードに切り換えないとやっていけない場所だと思うからだ。

 攻撃してくるのはひとりくらいしかいないが、足を掬われないよう常に気をつけている必要がある。

 取り越し苦労かもしれないが、それがいつしか身についたわたしの護身術だった。


 外や廊下は涼しく感じたのに教室の中に入るとムッとする。

 まだ登校している生徒は半数ほどだが、雨のせいで換気を怠っているため湿気が溜まって淀んでいるように感じた。

 わたしは自分の席に鞄を置くと窓を開けて回る。


「濡れるじゃん」「たいして降ってないよ」と抗議の声を無視する。


「閉めて」と強い口調で言ったのは藤井さんだ。


 彼女の席は窓際ではないので直接雨に濡れることはないと思うが、風が入り込むのがお気に召さないらしい。

 わたしは相手にせず自分の席に戻る。

 すぐに彼女の取り巻きのふたりがやって来て、話を聞くと窓を閉めて回った。


 わたしが藤井さんの様子をうかがうと、もうこちらには関心をなくしたように取り巻きと会話していた。

 彼女がこのクラスをかき乱す元凶だった。

 瑠菜に彼女のことを話すと「まるで悪役令嬢みたい」と評していた。

 詳しくは知らないがそういう役柄の女性が一部で人気らしい。

 まったく理解不能なことだ。

 とはいえ藤井さんはその性格を抜きにすれば女性の憧れとも言えるだけの資質を持っている。

 類い希な美貌やスタイル。

 家も非常に裕福で、誰もが知るIT企業の一族だという。

 その上、成績も学年トップなのだから非の打ち所がない。

 性格まで良ければ完璧だが、神様はそこまでは許さなかったようだ。


 ただでさえこのクラスには個性的な人が多い。

 有名女優の初瀬紫苑と同じクラスになったと知った時は感動ものだったが、これだけの時間が経っても彼女はクラスメイトと交流しようという気を見せない。

 その初瀬さんが認めるのは生徒会長になった日野さんと、彼女といつも一緒にいる日々木さんくらいだ。

 日野さんには同じ高校生とは思えない威圧感があり、気安く話し掛けることができない。

 日々木さんはお人形のような美少女なのに心優しく天使のような存在だ。

 彼女が気を配って日野さんや初瀬さんとほかのクラスメイトの間に溝ができないようにしている。


 その日々木さんが登校してきた。

 とんでもなく大柄で、非常に無口な安藤さんを伴って。

 ふたりは幼なじみらしい。

 安藤さんも近寄りがたい雰囲気がある。

 大きいというだけで脅威を感じるし、何を考えているのか分からないので怖い。

 彼女もまた日々木さんを通してクラスのみんなと繋がっている印象だ。


 日々木さんはみんなと挨拶を交わすと昨日と同じように藤井さんの元に向かった。

 藤井さんに取り込まれたのかと心配したが、様子を見る限り藤井さんの性格を変えようと悪戦苦闘しているようだ。

 あんなのに関わり合うなんて時間の無駄だと忠告してあげたいが、差し出がましいことだろうか。


「凛はどう思う? 藤井さんと日々木さんのこと」


 わたしと同じ心配をしていたのだろう。

 友人の美羽が学級委員の西口さんに問い掛けた。


「他人がとやかく言う事じゃないんじゃない? それよりも期末テストの方が問題だし」と彼女は答えた。


「2学期から習熟度別クラス編成を一部導入するって話が出ているのにクラス委員長が成績最低なんてなったら最悪でしょ。公立の中学出身者で勉強会をするって話もしているんだけど、みんなあんまり危機感がないのよね」


 勉強会という単語には気を引かれたが、彼女は日々木さんの件には興味がないようでがっかりだ。

 わたしは「美羽はどうなの? わたしは無駄な努力になるような気がするけど」と口を挟む。


「うーん、わたしは日々木さんに協力できないかなって思うんだけど……」


 彼女は弟妹が3人もいて、誰に対しても面倒見が良い。

 わたしには妹がいるが、その負担から逃げていまここにいる。

 これがその差というものなのか。


「それなら協力したい」と西口さんは言ったが、すぐに「あー、でも勉強が……」と頭を抱え出す。


 わたしは傍観者に徹することができなくて、「少し勉強教えようか?」と声に出した。

 藤井さんに関わることはしたくなかったが、勉強を教えるくらいならわたしにもできる。

 本当は他人に教えている場合ではないのだが、何もしなければ後悔するかもしれないと思ってしまった。


「いぶきは優しいよね」と美羽が微笑む。


「そんなことないって」と小声で否定するわたしの横から、「ありがとう!」と大声で西口さんがこちらに向かって手を合わせた。


「次の休み時間に日々木さんと話し合ってみよう。勉強は放課後にお願いできる?」


 西口さんは美羽とわたしにそう告げると、「ほかにも声を掛けてみるね」とわたしたちの元から足早に去って行った。

 声を掛けた対象が日々木さんと藤井さんの件だけではなく勉強を教える件でもあったことを知るのは、今日の放課後に連れて行かれた空き教室でのことだった。


「こんなに……」と呆然として呟くわたしに向けられた視線の数は片手では足りない。


 期待に満ちた眼差しばかりではなかったものの、いまさら断ることはできない。

 わたしは大変な役割を引き受けてしまったと後悔する羽目に陥った。




††††† 登場人物紹介 †††††


香椎いぶき・・・臨玲高校1年生。障害を持つ妹がいる。その介護を負担に感じて家から離れることにした。そのことに強い罪悪感を抱いている。


麻生瑠菜・・・鎌倉三大女子高のひとつ高女の1年生。いぶきと同じ寮に暮らしている。


園田美羽・・・臨玲高校1年生。保健委員。弟妹3人がいて、面倒見が良い。姉気質が共通しているからかいぶきと仲が良い。


西口凛・・・臨玲高校1年生。学級委員。近隣の公立中学出身。自ら立候補して学級委員を務めるなど行動力がある。


初瀬紫苑・・・臨玲高校1年生。映画女優。現在新作映画の撮影中。


日野可恋・・・臨玲高校1年生。生徒会長。現在検査入院をしていて欠席中。


日々木陽稲・・・臨玲高校1年生。生徒会副会長。クラスの和を生み出すためにクラスメイトに声を掛けて回っている。ロシア系美少女。


藤井菜月・・・臨玲高校1年生。上に立つ者はこうあるべきだという理想像を持つが自身のコミュニケーション能力不足によって周囲から強い反発を受けている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る