第81話 令和3年6月25日(金)「変容」土方なつめ

 今朝交わした言葉が頭の中で何度も何度もリフレインする。

 外は雨が降り出していたのに彼女の表情は明るく、梅雨空を吹き飛ばすような爽やかさがあった。

 女の子らしいふんわりしたワンピースに身を包み、いかにも女子大生という大きな鞄を肩から提げている。

 彼女はキラキラした笑顔でこう私に尋ねた。


「友だちから一緒のサークルに入ろうって誘われたんです。迷っているんですけど……」


 その言葉とは裏腹に彼女の瞳は背中を押して欲しいと言っているように私には見えた。

 彼女がアスリートで、私が務めるNPO法人のF-SASに寄せられた相談であったなら答えようはあったかもしれない。

 だが、その時の私には彼女を引き留める理由はどこを探しても見つけられなかった。


 私はなんと答えれば良かったのだろう。

 結局、私は後頭部に手をやり「サークルのこととか分からないから」と相談そのものから逃げ出した。

 大学生と社会人。

 同じ年齢でもそこには大きな壁が存在するように感じた。


 今週になって東京は緊急事態宣言からまん延防止等重点措置へと移行した。

 それに伴い大学は対面授業が再開され、私の隣人である藤間とうまさんは毎日大学に通うようになった。

 喜ばしいことだ。


 一方、私はリモートワークが続く。

 外での仕事も少しずつ増えては来たが、まだオンライン対応がメインとなっている。

 月曜日のお昼は久しぶりにひとりきりで食事を摂った。

 何でもないことなのに、心にポッカリと穴が開いたようだった。

 それでもその日は「遅くなってごめんなさい」と謝る彼女に「私のことは気にしなくていいから」と言う余裕があった。

 折角、大学生活を満喫しようと上京したのに緊急事態宣言によってオンライン授業を余儀なくされていたのだ。

 それが解除したばかりのいまは友だちとの交流やキャンパスライフを楽しめば良い。

 心からそう思っていたつもりなのに……。


 大学の友人から誘われて断れなかったと翌日からは夕食も一緒にできなくなった。

 彼女が嬉しそうに語る大学生たちの日常はなんだか別世界のことのようだ。

 だから彼女の行動に水を差すのも悪いと思ったし、日に日に遅くなる彼女の帰宅時間にやきもきする姿を見せたくなかった。

 水曜と木曜の夜はSNSでのやり取りだけで、顔を合わせるのは朝だけになってしまった。

 壁一枚の距離がなんだか果てしなく遠くなった気がする。


 私は今日仕事が休みだった。

 昨日ワクチン接種を行ったので大事をとるという意味もある。

 少し腕に痛みがあったが、目立った副反応は出ていない。

 胸の痛みをワクチンのせいにしては申し訳がないだろう。


 春に上京してからひとりでいることに慣れたはずなのに、ここ数日は耐えがたい気持ちが私を焦がしている。

 仕事中はなんとか気を紛らわせることもできていたが、今日は駄目だ。

 本当はやるべきことがたくさんあった。

 勉強もそうだし、身体を動かしたいと思っていたし、買い物にも行きたかった。

 だが、そんな気分になれない。


 いま彼女は何をしているのだろう。

 あれだけ可愛いのだからモテるに違いない。

 彼女が通うのは有名私大だし、私の貧相な想像力ではナンパに精を出す軽薄な男子学生の姿ばかりが浮かんできてしまう。


 ……本当に住む世界が違うんだ。


 東京に出て来ず、あのまま故郷にいたらこんな思いはしなくて済んだはずだ。

 何も考えずに自衛隊に入隊していたら寂しいなんて感じることさえなかったかもしれない。

 緊急事態宣言という異常事態によって本来住む世界が違う私と彼女が巡り会った。

 短い期間とはいえ濃密な時間を過ごした。

 いろんなことを語り合った。

 笑い合った。

 このまま世界でふたりきりだったとしても良いと思うほどに。

 しかし、日常が戻り、彼女は自分の世界へと還っていった。


 こんな時にどうすればいいのか分からない。

 昨夜はふるさとの友人に連絡して旧懐を温め合った。

 でも、それを毎日続ける訳にはいかない。

 もうみんな前に向かって歩き出している。

 趣味でもあればいいのかもしれないが、クロスカントリースキーに夢中になった時のように熱くなれるかは疑問だ。


「そういえば……」とたったひとりしかいない部屋の中で独りごちる。


 上京したものの私のように友だちがいない若者同士で繋がる方法はないか考えてみたらと代表から言われたな。

 あのあとすぐに藤間さんと親しくなったのでその必要性を感じなくなってしまった。

 だが、その時間があったからこそ孤独感は強烈になり、こうして悶々と過ごす状況に陥っている。


 私も友だちを作って自分の世界を持つことが彼女との関係をより良くするのだろうと頭では分かっているつもりだ。

 分かっていても募るのは彼女に側にいて欲しいという思いであり、ほかの誰かが代わりになるとは思えなかった。

 いつから自分はこんな面倒なヤツになってしまったのか。

 私はついにじっとしていられなくなり、外に行くことにした。


 彼女に勧められて買ったフェミニンな服ではなく、いつものカジュアル――というかスポーティ――な服に着替えてマンションを出る。

 行く当てはない。

 ドライブも考えたがいまの精神状態だと事故が怖い。

 雲は多いが陽差しもあり、もう雨の心配はなさそうだった。


 目的もなく早足でドンドンと歩を進める。

 少し歩くともう知らない場所だ。

 私は気の向くままに道を選び、闇雲に歩く。

 何も考えたくなかったのに、脳裏には彼女の優しげな顔が浮かぶ。

 それを振り払うようにひたすら前進した。

 いつしか軽いジョギング並のスピードになっていた。


 息が苦しい。

 マスクと暑さのせいだろう。

 水分不足かもしれない。

 どこかで休まないといけない。

 そう思う一方で、もっと身体をいじめたくなる。

 肉体的苦痛だけが精神的苦痛を塗り替えてくれると信じたがっている。


 ……いっそ、このまま。


 高校生の時だったら限界まで無茶をしていただろう。

 社会人になったいま、周囲に迷惑を掛けてしまうという思いが湧いて私はブレーキを掛けた。


 見つけた自動販売機で飲み物を買い、すぐ近くのブロックに腰掛けた。

 東京はどこまで歩いても住宅ばかりで、公園のような人工の自然しか見当たらない。

 無性に田舎へ帰りたくなった。

 子どもっぽい憧れだけで東京に来たけれど、本当にそれで良かったのだろうか。

 ここは私の居場所ではないような気がした。


 帰りはスマートフォンで位置を確認しながらゆっくり歩く。

 大自然にはほど遠いが、街中にも植物はたくさんある。

 先ほどまでは周りを見る余裕がなかった。

 かなりの距離を歩いたことで少し気持ちにゆとりが出来てきたのかもしれない。

 途上に、それは見事な花壇があった。

 狭い庭を立体的に使っていて見る人を楽しませる作りになっている。

 花のことにはそれほど詳しくないが、見たことのあるものが多かった。


 見とれるように眺めていると家の中からおばさんが出て来た。

 日除け対策で肌のほとんどを布で覆っている。

 マスクにつばの広い帽子をかぶっているので顔もよく分からない。

 ただ目元は優しい感じがした。


「こんにちは。素敵な庭ですね」


「あら、ありがとう」


 おばさんはニッコリ笑うと腰をかがめて庭いじりを始めた。

 私のことなど目に入らないかのように集中している。

 だからつい思いをそのまま口にした。


「情熱を傾ける趣味があって、それを活かせる場所があって、これだけの技術があって……。こんな暮らしができてとても羨ましいです」と。


 マスク越しに囁くような声で話したので聞こえるとは思わなかったが、彼女は顔を上げると「誰でも隣りの芝生は青く見えるものよ」と告げた。

 私は納得できずに「そうでしょうか?」と食い下がる。


「私からすればあなたの若さや健康が羨ましいわ」と言って立ち上がった彼女は「あなた自身も素敵よ。自信を持っていいと思うわ」と褒めてくれた。


「そうでしょうか……」と沈みがちな声で同じ言葉を繰り返すと、「大丈夫よ。思いの丈を伝えれば、ちゃんと相手に気持ちは届くものよ」と年の功といった表情でアドバイスをくれた。


 まるで心を読まれたかのような発言にドキリとする。

 彼女は「若い人の悩みの大半は色恋でしょう?」と笑った。

 私は思わず両手で顔を隠す。


「格好いいんだから誠意を持って接すれば、なびかない女の子なんていないわよ」


「待って! 私、女ですよ!」


「……あら、あら、あら、ごめんなさい。すっかり目が悪くなっちゃったわね」と彼女は悪気のない笑みを浮かべる。


 確かに女性にしては大柄だし男っぽいとよく言われる。

 今日の服装だけでは男女どちらかは分からないだろう。

 声も低めで、ボソボソと話すと間違われることもよくあった。

 だが、髪型などを見れば……。


「いまの若い人はぱっと見じゃ分からないから」と誤魔化すおばさんに私は「気にしていませんから」と言って水に流した。


 女と分かったからか、彼女の態度がガラリと変わった。

 上品さはなりを潜め、親しげに話を始めたのだ。

 ちょうど話し相手が欲しかったと言わんばかりに、旦那への愚痴や健康のこと、日々の苦労話に果ては娘の素行についての相談までされてしまった。

 彼女は話を切る暇を与えない高等戦術の持ち主であり、立ち話を延々と聞かされる羽目になってしまった。

 最後は再び熱中症になりかけたのか頭がクラクラする思いだった。


「若いイケメンから声を掛けられたと思って舞い上がっちゃったのよ」


 夕方にさしかかる頃、ようやく私は解放された。

 まったく疲れを見せないおばさんは「これを持って行きなさい」と花の苗が植えられた植木鉢をお喋りにつき合った報酬として手渡してくれた。

 私はお礼を言ってようやくこの庭をあとにした。


 身も心もクタクタだ。

 そのお蔭で今夜はぐっすりと眠れるかもしれない。

 問題は何一つ解決していないが、無駄な一日ではなかったと思う。

 ……たぶんだけど。




††††† 登場人物紹介 †††††


土方なつめ・・・高卒社会人1年目。高校時代はクロスカントリースキーの選手。現在は上京しNPO法人”F-SAS”に就職している。


藤間とうまララ・・・大学1年生。地方から上京して現在独り暮らし。なつめの隣人で、ふとしたきっかけから仲良くなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る