第67話 令和3年6月11日(金)「名前」土方なつめ

「明日はお弁当、作って持って行きますね」


 ハートを飛ばすような笑顔でララちゃんが言った。

 ここは彼女の部屋の中だ。

 誰が見ても女の子らしいと感じる可愛らしいインテリアがセンス良くレイアウトされている。

 オレンジ系の明るいカーテンやカーペットでベランダ付近が統一され、ベッドの周囲は淡いブルー系でまとめられている。

 女子と言えばピンクという思い込みがあったが、その色がなくても彼女のふわっとした愛らしさは十分伝わってくる。

 ここに来るたびに自分の部屋と比べてしまい、女子力の低さを突きつけられた気分になってしまう。


「ララちゃんの料理、上手だから楽しみにしているよ」


 2週間前に急な仕事のためキャンセルとなったふたりで遊びに行くという約束を明日果たす。

 あの日までは私が1日おきくらいに彼女の部屋にお邪魔していたが、あれ以降はわたしが行かない日には彼女がわたしの部屋に来るようになった。

 私は仕事、彼女は大学での授業をオンラインで行っているので、直接人と触れ合う機会がほとんどない。

 ふたりともこの春に上京したばかりだから一緒に遊びに行く友人もあまりいないということで、女性専用マンションの隣同士に暮らすわたしたちは互いの部屋を行き来するようになった。


 買い物はふたりでよく行っている。

 いつも彼女に料理を作ってもらうのでなんとかお返しをと思い行動しているが、お世話になりっぱなしの状況は変わっていない。

 材料費は折半でいいからと半額しか受け取らないし、高価なプレゼントも「ダメですよ。もっと考えてお金を使わないと」とお母さんのようなことを言って拒否している。


「良い奥さんになるよ」と私が褒めると「もらってくれますか?」とはにかんでいた。


 最近では必要最小限しかなかった私の部屋にも少しずつ彩りが増えてきた。

 彼女の勧めに従ってちょっとした小物を買っているからだ。

 プレゼントではないが彼女が喜んでくれるのならと思い購入しているが、殺風景だった頃より仕事が捗るようになった気がする。

 やはり生活に潤いは必要なのだろう。


「また、『ララちゃん』って」と彼女は頬を膨らませる。


「ごめんなさい」と謝ると、彼女は目尻を下げて「許してあげます」と微笑んだ。


 ララちゃんは自分の名前を好きではないそうだ。

 良い名前だと思うのだが、過去に何度かからかわれたことがあったらしい。

 私も”土方ひじかた”という名字を”ドカタ”と呼ばれてからかわれたことがあったので気持ちは分からなくもない。

 本気で”ドカタ”だと信じ込んでいた人もいたので、全員がからかい目的だった訳ではなさそうだけど。


 彼女の希望は『藤間とうま』と名字の呼び捨てなのだが、なんとなくそうすることは躊躇われた。

 彼女とは同じ歳だから呼び捨てでも構わないはずだ。

 しかし、これまでの私の友人たちより上品で女の子っぽい彼女を同じような扱いとすることに気が引けた。

 かといって『藤間さん』は他人行儀過ぎる印象を受ける。

 何か良い呼び掛け方はないかと最近頭を悩ませている。


 彼女は「そろそろできたと思います」と席を立つ。

 キッチンと呼ぶには申し訳程度のスペースだが、彼女の手に掛かると魔法のように素敵な料理が生み出される。

 私の部屋だとお湯を沸かすかレトルトを温めるかくらいしか役に立たないのに。


 今日は、私のところに昨日実家から送られてきた野菜をふんだんに使ったシチューを作っている。

 鍋を確認し「良い感じに出来上がりました」と楽しげな声で言い掛けた時、突然の悲鳴が上がった。


「キャーーーーーーーーーーーーぁぁぁぁあああああああああああ」


 身体全体から絞り出すような声だ。

 私は瞬時に立ち上がり、彼女のところに向かう。

 ララちゃんは手に持ったおたまを目の前の壁に向け指し示した。

 私の視線もその先へと送られる。

 そこには一匹の大きな黒い虫がいた。


「捕まえれば良い?」


「素手はダメです!」と彼女は叫ぶ。


「殺虫剤! あ、そこだと鍋に……。どうしよう……」


 彼女が考え込むうちに、その黒い虫が壁を這った。

 かなりのスピードで下へと走る。

 私は呆然とそれを見送ることしかできない。

 やがてソイツはコンロの奥へと消えて行った。


 視線を横に向けるとララちゃんが青ざめた顔で立っていた。

 私は「大丈夫?」と声を掛ける。

 彼女はおたまを鍋に戻すと蓋を閉め火を止めてから「虫とか苦手なんです」と私の胸に飛び込んできた。

 私は田舎育ちなので割と平気だ。

 彼女のような反応はしたことがない。

 女の子ならあれくらいの反応を見せた方がいいのだろうか。

 それに……。


「あれが例のヤツ?」


 私の住んでいたところには棲息していない虫。

 もちろん有名なのでその存在は知っている。

 ララちゃんは私の胸に顔をうずめたまま「はい」と頷いた。

 私は彼女の気が済むまでそのまま立ち尽くしていたが、私のお腹の虫がグ~と音を立てるまで彼女は解放してくれなかった。


「あの……」


 食事が終わると躊躇いがちに彼女はお願いをした。

 それは「今晩、なつめさんの部屋に泊めてもらえませんか?」というものだった。


「殺虫剤は撒きましたが、また出るかもしれません。この部屋の中にアレがいると思うと怖くて眠れません」と訴えかけてくる。


「じゃあ、今夜だけ部屋を交換しようか」と私が提案すると彼女は目を丸くした。


「えーっと……、なつめさんを危険な目に遭わせられませんし、それに……」


 彼女は私の隣りにやって来ると、私の手を取り自分の胸元に押し当てた。

 そして、「怖くてドキドキしたままなんです。ひとりでいると……」と目を伏せる。

 ララちゃんはキャミソールの上から薄手のジャケットを羽織っている。

 私の手の下はカップ付きキャミ一枚だけなので、触れるだけでなんだかいけないものに手を当てている気になってきた。

 高校時代の仲間の裸なら見ても何とも思わなかったのに、彼女は同じ生き物ではないみたいだ。

 砂糖菓子のように甘くて、力を籠めたら脆く崩れそうで、私の胸もドキドキと早鐘を打つ。


 彼女が上目遣いに私を見つめる。

 私は彼女の目を見つめ返すと「守るよ」と囁いた。

 怯えている――ようには見えなくて、むしろ頬を染めて興奮しているように見えるけど――女の子を放ってはおけない。

 これは彼女に借りを返すチャンスでもある。


 彼女は上機嫌で私の部屋に行く支度を調える。

 意外と大荷物になり、私が持ってあげた。


「シャワーもお借りしますね。あ、一緒に入ります?」


「いや、それは、ちょっと……」と私がしどろもどろになると、彼女は「冗談です」と笑った。


 交替でシャワーを浴び、明日の計画についてお喋りして少し早めに就寝する。

 私は床で寝ると言ったが、彼女はダメですと譲らない。

 シングルベッドだからふたりで寝るには狭いし、密着すると暑くて眠れないかもしれない。


「少しだけ冷房を使おうか」と私が提案すると、「わたしのせいで済みません」と彼女は平謝りになる。


 こうしてこの夏初めて文明の利器を使って横になった。

 東京は地元よりかなり暑かったのでこれまでも何度か電源を入れようとした。

 しかし、やせ我慢をして利用しなかった。

 ……こっちの暑さは尋常じゃないと聞くし、無駄に辛抱することもないか。

 私はすぐ側に人の温もりがある心地よさに誘われて、すぐに眠りに落ちた。




††††† 登場人物紹介 †††††


土方なつめ・・・高卒で社会人1年目。高校時代はスキークロスカントリーの選手だった。チームメイトとは非常に仲が良かったが、強くなることが優先で互いに女として見ていなかった。


藤間とうまララ・・・大学1年生。高校時代はオシャレとは無縁で、勉強優先だったためそこまで親しい友人はいなかった。姉に手ほどきを受けて大学デビューを果たそうとしたが、緊急事態宣言によりオンライン授業ばかりになってしまう。


 * * *


 暑さと、わずかばかりの息苦しさで目を覚ます。

 タイマーをかけていたのでエアコンは止まっていた。

 暗がりとはいえ、外から差し込む街の光はカーテン越しでもかなり部屋の中を明るく照らしている。


 顔面に柔らかなクッションが当たっている感触があった。

 中学生の頃まで使っていた抱き枕のような……それよりもっとぷよぷよしたような……。

 ハッとして目を凝らす。

 私はララちゃんの胸に顔を押しつけていた。

 いや、彼女が私の頭をギュッと抱き締めていると言った方が正解だろうか。

 ミルクのような匂いがして、私はそれをずっと嗅いでいたいと思った。


 私は横向きになっていたので、上側の手をグッと伸ばす。

 結構キツい姿勢だが、枕元をまさぐってエアコンのリモコンを取ろうとした。

 指先に硬い感触があり、あと少しと身体を反らせる。

 すると、耳元に「あんっ」と鼻にかかった艶めかしい声が届く。

 私は身体を硬直させて様子をうかがう。

 目覚めてはいないようだ。


 私はエアコンの電源を入れる。

 抱き合っていれば風邪を引くことはないだろう。

 ほんの少しの汗の匂いと甘いミルクの香りが混じる、安らぎを感じる芳香に包まれて私は再び眠りに落ちていく。


「おやすみ、ハニー」という言葉を残して。

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