第65話 令和3年6月9日(水)「社交ダンス」日々木陽稲
部室棟1階にあるダンスルームに集められ、今日から社交ダンスの授業が始まった。
当然臨玲には女子しかいないので、ふたりでペアになって交替で男役を務めることになる。
わたしの相手は紫苑になった。
もちろん可恋とペアを組みたかったが、彼女は純ちゃんとペアだ。
身長差が近いという理由もある。
それ以上に社交ダンス初心者の純ちゃんが躓いて相手の上にでものしかかったりしたら、相手が無事では済まないという事情があった。
……筋肉の塊みたいなものだからね、純ちゃんは。
本当は、可恋がわたしと紫苑のどちらかを選ぶと支障をきたすからだと思っている。
紫苑はわたしと可恋以外のクラスメイトとはまったく交流しようとはしないので、わたしと可恋が組めば孤立してしまう。
かといって可恋が紫苑を選べばわたしに悪いと考えたのだろう。
結果、わたしと紫苑が組むのがベターだと可恋は判断した。
わたしは家で可恋相手に練習を積んできたので授業で組めないことに不満はない。
紫苑が何か言い出すかと心配したが、「私が人前で可恋とイチャついたら噂になっちゃうじゃない」とわたしと組むことに文句は言わなかった。
ダンスルームはフローリングで廊下側が鏡張りになっている。
かなり広々としていて、1クラス全員が入っても密という感じはしない。
ただし、生徒の服装が残念だった。
公立中学と同じレベルのジャージ着用が義務付けられていたし、全員マスク姿とあってダンスの華麗さとはほど遠い絵面になっている。
「紫苑はジャージも免除されているから良いよね」
この部屋の中で指導する教師と紫苑だけが異なる服装をしている。
紫苑のジャージはブランドもので、ほかの生徒がジャージと言えばこの赤という感じなのに対して深みのある黒色だ。
「私だって役でならそんな恥ずかしいジャージだって着るわよ」と答えた紫苑は「可恋はなんで交渉しなかったんだろ」と訝しんだ。
可恋は制服のセーラー服については入学時に理事長から変更のお墨付きを得たが、ジャージについてはスルーした。
だから、いまも似合わない赤のジャージを身に纏っている。
「可恋は動きやすさがいちばん大事だから……。ジャージなら見栄えが悪くてもあまり不満がないみたい。わたしの方が口出ししたいくらい」
可恋は家の中や道場への行き来でジャージやスポーツウェアを着ることが多い。
オシャレより機能性を重視するため、いつも似たり寄ったりになってしまう。
わたしが毎日服装チェックをしていなければ、同じような服が連続してしまいそうだった。
そんな苦労話をしていると授業が始まった。
わたしは運動が苦手だが、可恋に鍛えられたので女性役のリードされるダンスはなんとかこなせるようになった。
男性役は可恋だと身長差がありすぎるので出雲さんに手伝ってもらって練習しているが、なかなか上手くいかない。
「紫苑、経験は?」と尋ねると、「男とはないわよ」と意味ありげに彼女は答える。
「何の経験よ?」と追及すると、「何でしょうね」とはぐらかされた。
「社交ダンスはマネージャーに少し手ほどきを受けたわ」と紫苑は悪戯っぽい目つきになると、わたしの手を取り踊り始めた。
それに気づいたクラスメイトたちは教師の話そっちのけでわたしたちに注目する。
紫苑は男役としてしっかりリードし、わたしは相手に合わせるだけで良かった。
可恋よりも動きは柔らかく女性的だが、メリハリがあってとてもインパクトがある。
普段のクールさは表情などに残しつつ、人を陶酔させる見事なダンスだ。
正確無比な可恋と情熱的な紫苑という感じで好対照だった。
ダンスが終わると拍手が鳴り響く。
凄いという甲高い声があちこちから上がり、教師も「筋が良いですね」と褒めてくれた。
可恋も微笑んでわたしたちを見ている。
わたしが微笑み返すと、鮮やかなウィンクが飛んで来た。
「次は陽稲がリードして」と紫苑が言った。
「え?」と驚くと、「そうすればこんな授業をもう受けなくて済むでしょ」と彼女は言葉を続ける。
できたからといって授業を受けずに済むとは思えないが、もうすぐ映画の撮影が始まって学校に来る時間が減ると話していたので早めに評価を受けておきたいという気持ちがあるのだろう。
わたしは頷くものの男役には自信がない。
「いいから、胸を張って」と紫苑に言われ覚悟を決める。
うまくできなかったら可恋に代わってもらってもいい。
特別な事情があってのことだから。
そう思いながら踊り始めたが、驚くことにもの凄く上手く踊れている。
わたしはぎこちなくリードしているだけだ。
それなのに紫苑は完璧なまでの動きを見せている。
これが「少し手ほどきを受けた」程度でないことは明らかだ。
わたしが側にいなくても、そこに男性役がいるんじゃないかと思わせるような踊りだった。
再び拍手の渦に包まれた。
先ほどはわたしも賞賛を浴びる権利を少しは有していたが、今回はないと思う。
それほどまでに彼女はひとりで踊り切った。
「……可恋と踊ったらとんでもないダンスになるんじゃ」
わたしの呟きを聞きつけた紫苑は「あら、可恋を譲ってくれる気になったの?」と微笑む。
わたしは「可恋のスタイルから言えば、わたしの方が相性が良いはずよ」と答えたが、相性以前のダンスの技術に格段の差があることは認めざるをえない。
「いまはそういうことにしておいてあげるわ」と紫苑は余裕の表情を浮かべた。
* * *
放課後、新館に北条さんが訪れ可恋に書簡を手渡した。
わざわざやって来たのだから相当大きな問題が起きたのだろう。
可恋は表情を変えずに書簡に目を通す。
そして、読み終えるとわたしに見せてくれた。
「何、これ」
その要望書は小さな文字でびっしりと埋め尽くされている。
難解な言葉で綱紀粛正の強化を迫り、その内容ひとつひとつを事細やかに書いていることが分かった。
理事長の在任中に制服を変更しないと表明するようにという文章が目に飛び込んでくる。
ざっと一読し、大きな影響を受けそうな紫苑にそれを渡す。
紫苑に続いて岡本先輩が険しい顔つきで黙読し終えてから、可恋が静寂を破った。
「OG会の要望に対して理事長は?」
「すべてを呑むことはできないという立場ですが……」
理事長の腹心である北条さんは申し訳なさそうにそう答えた。
彼女は「予想以上の動きの速さでした。理事会にもすでに働きかけているようです」と現状を説明する。
「おそらくOG会は紫苑に関する要望だけ譲歩して、ほかを受諾させようという計算でしょう」
駆け引きの初歩だが北条さんの顔を見ていると理事長はまんまとその計算通りに動いているようだ。
新しい制服を発表して在校生に受け入れられたという感触をつかみ、わたしは順調にこのプロジェクトが進みつつあると感じていた。
だが、いきなりラスボスが出現してしまった。
「理事長には早まらないように伝えてください。彼女を首にできるのはOG会だけではないのですから」
北条さんは可恋が書簡をコピーするのを待って、原本を手に急ぎ足で戻って行った。
わたしが可恋に「どうするの?」と問うと、彼女は「まだ情報が少ないから今回は持久戦かな」と穏やかな声で答える。
岡本先輩は焦った表情だが、紫苑は他人事のような顔で「私の力が必要なら言って」とだけ告げて手元のスマートフォンに視線を落とす。
可恋はひとつ頷くと「茶道部に踊ってもらえるかどうか、かな」と不敵に微笑むと自分のスマートフォンを手に取った。
††††† 登場人物紹介 †††††
日々木陽稲・・・臨玲高校1年生。生徒会副会長。人気女優の紫苑にまったく引けをとらない美しさを誇る。ただし小柄で幼い印象を与えている。運動は苦手だがジョギングや可恋の指導によるトレーニングによってある程度の筋力は保持するようになった。
日野可恋・・・臨玲高校1年生。生徒会長。空手・形の選手で身体の使い方に長けている。またトレーニング理論の研究者であり身体のメカニズムにも詳しい。着る服を選ぶ基準のひとつが回し蹴りができること。
初瀬紫苑・・・臨玲高校1年生。生徒会広報。カリスマ的人気を誇る映画女優。彼女の性格を考慮して事務所は極力メディアに露出させない方針を採っている。
安藤純・・・臨玲高校1年生。陽稲の幼なじみ。競泳の選手で国内の若手の中ではかなり期待されている。サイズがあり、筋肉量も豊富。
岡本真澄・・・臨玲高校2年生。生徒会会長補佐。
北条真純・・・臨玲高校主幹。理事長の片腕として多岐にわたる業務を担っている。OG会からの要望書には高階の件を公表することで理事長を辞任に追い込むという脅しが暗に記されていた。
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