第62話 令和3年6月6日(日)「心のもやもや」大島彼方
「はじめちゃん、どうしたの!」
私が驚きの声を上げると、はじめちゃんはニヤリと笑いながら「
半分納得したが、疑問も残る。
「でも、どうしてここに?」
ここは神奈川県にある空手道場だ。
何度もお世話になっているが、私もはじめちゃんも東京に住んでいるし所属している道場も東京にある。
私がここに来ていることを知ったからといってわざわざはじめちゃんまで来る必要はないはずだ。
「昨日美空ちゃんが、彼方が思い詰めた顔だったって言っていたから心配になったんだよ。最近、元気なかったし」
私は両手を合わせると「ごめんね、はじめちゃん」と謝る。
別に隠すつもりはなかったが、ふと思い立って昨日この道場に押しかけたのだ。
師範代の三谷先生に頼み込んで泊めてもらい、今朝の朝稽古にも少し参加させてもらった。
「ちょっとは元気が出た?」と聞かれ、私は何とも言えない顔をする。
答えが返ってこないことに苛立つことなく、はじめちゃんは「あたしじゃ力になれないとは思うけど、話せば楽になるって言うよ」と視線を逸らしながら告げた。
私が「照れるはじめちゃんって可愛いね」と思ったことを口にすると「バカヤロウ」と怒られてしまった。
「うーん、説明するのが難しいんだけど、心の中にもやもやしたものがあって……」
正直なところ、このもやもやの正体は分からない。
中学生まではただ師匠の言葉に従って鍛えていれば良かった。
高校生になり師匠と離れても、都会で出会う新しい刺激に対処するのが精一杯で考え込むような余裕はなかった。
1年が経ち、この環境に慣れるにつれて自分が目指すものが何なのか分からなくなってきた感じだ。
「つまり、空手の目標が見つけられないでいるって感じか」
私が語った言葉をはじめちゃんがひとことでまとめてくれる。
それだけではないような気もするが、それも間違いではないと思う。
「そうなのかな。師匠に相談しても三谷先生に相談しても自分で考えてみなさいって言われるの」
「彼方は大会での優勝とかあんまり興味ないもんな」
はじめちゃんが言うように、空手大会で勝つことにどれだけの価値があるのかと思ってしまう。
師匠から学んだ空手は実戦的なものだ。
私はいまフルコンタクト系の空手道場に所属しているが、それでもそこの空手と私の空手には違いがあるような気がする。
「こっちに来てから、戦ってワクワクしたのってキャシーや
単純に相手の強さの問題ではない。
現在在籍している道場には私より強い人は多数いる。
女性でも大学生や社会人の空手家は経験豊富で結果を残している人が少なくない。
彼女たちに対して試合形式ではまったく歯が立たない。
ただ素手でのストリートファイトを挑めば私が勝つと思う。
「ここの道場にいる時の方が生き生きとしているもんな」
強い人が偉いという考え方は私自身も持っているので仕方がない部分はある。
東京の道場はそれがかなり強く、女で高校生の私は最底辺に位置している。
その扱われ方への不満もあるが、強さの基準が試合での強さというところにもやもやするものがあった。
いや、それも当然のことだと頭の中では分かっている。
分かっていても、納得しきれない部分があるのだ。
「はじめちゃん、お昼は?」
「まだ」
道場には私たち以外に人の姿はない。
午前中稽古をしていた人たちは先に食事に向かっている。
私はひとり残って形の稽古を繰り返していた。
そこにはじめちゃんが現れたのだ。
私たちは母屋に歩いて行く。
道場の外はパラパラと雨が降っていた。
傘が必要なほどではないが、外は肌寒い。
道着姿の私だけでなく、私服のままのはじめちゃんも吹き抜ける風に身震いした。
「あ、はじめさん、来たんですね」
広間に行くと嬉しそうな顔で美空ちゃんが近づいてきた。
彼女はこの道場所属の中学生で、はじめちゃんに懐いている。
はじめちゃんも満更でもない顔つきで、子犬のようにじゃれつく少女と言葉を交わした。
私は広間を見回す。
ここの練習生が三々五々集まって食事を摂っている。
その中にお目当ての姿を探すが見当たらなかった。
今日は天候が悪いので来ないだろうと三谷先生から言われていたが、それでも
そこに三谷先生がやって来た。
私とはじめちゃんを見つけると真っ直ぐこちらにやって来る。
はじめちゃんは改まった口調で挨拶をして、先生は笑顔で応じた。
「届け物があっていまから可恋ちゃんの自宅に行くんだけど、一緒に来る?」
「え、いいんですか?」と私は嬉しさのあまり弾んだ声を出した。
はじめちゃんは美空ちゃんに稽古をつけるからと辞退し、私だけが先生と車で向かうことになった。
それを聞いた美空ちゃんは満面の笑顔ではじめちゃんの昼食の準備に台所へと駆け出して行った。
私のためにとっておいてもらった分を彼女に出すことになったのだ。
一方、私は悩みのことなどすっかり忘れてウキウキ気分で先生に付き従う。
彼女が住むマンションにはすぐに到着し、私は大きな荷物を抱えて先生のあとを追った。
私には一生縁がなさそうな高級感のあるマンションだ。
玄関で私たちを迎えてくれたのは幼子を抱っこした
「もしかして、
私の発言に三谷先生が爆笑し、
彼女が歳下だと分かっているのに一度歳上だと信じ込んでしまった感覚は消えないでいた。
普通に会った程度なら書き換えは簡単だろうが、真剣に戦った相手だ。
その時に自分より格上だという烙印を押され、拭えないままいまに至っている。
知り合いの娘だと紹介され、「そうですよね」と私も苦笑いをするしかない。
そこはマンションの一室とは思えない広さだった。
空手のコートが二面以上余裕で取れそうだ。
片隅には最新のトレーニングマシンが設置されている。
ここで一緒に暮らしながら毎日対戦したりトレーニングしたりできればどれほど良いだろう。
先生が運んだ荷物の半分くらいは食料で、現在知り合いの母娘が宿泊しているのでその分の買い物を頼んだそうだ。
彼女は信じられないほど手際よく料理を作っていく。
ベジタブルミックス入りのオムレツやチキンのソテー、スープ、サラダといったものが瞬く間に完成した。
「日野さんの手料理が食べられて幸せです」
ほかの人たちは子どもの相手をしているので、ダイニングテーブルについているのは私と
食べるのがもったいないと思うのに食べない訳にはいかない。
気がつけばすべての皿が空になっていた。
「もう少し作れば良かったですね」
「いえ、滅相もないです!」
私は首をブルブルと振る。
ガツガツ食べて、はしたないと思われたのではないかと食べ終えてから思い至る。
わたしは恥ずかしげに「ごちそうさまでした」と言うと、
「あの……」
彼女のその笑顔を見て私は胸につかえているものを吐き出すように思いの丈をぶちまけた。
試合に勝つことに価値を見出せないこと。
いまの道場への不満。
もっと強くなりたいという気持ちはあるのに、どうすればいいか分からない苦悩。
「きっとお姉様が私には必要なんです!」
いつの間にか「お姉様」呼びになっていた。
普段から頭の中でそう呼んでいるから感情にまかせて話しているとそうなってしまう。
「苦しい時、困っている時に助けを求めることは大切です。ひとりでは乗り越えられない問題に直面することはいくらでもありますし、ひとりで抱え込むと八方塞がりになることもあります」
それだけで辺りの空気が一変したように感じる。
「ただし、安易に他人を頼ることは避けた方が良いと思います。あくまで自分なりの答えを見つけるためのサポートを求めるという姿勢が必要ではないでしょうか」
私は師匠や三谷先生や
これまでも師匠は自分で考えるように指導してきたが、それでも私は師匠に甘えて自分で答えを出そうとしなかった。
だから、小笠原から東京に私を武者修行へと旅立たせたのかもしれない。
「これからは誰かが正しい答えを持っていると考えるのではなく、一緒に答えを探していくことが求められていると思います」
「……お姉様」
テーブルを乗り越えて、その豊満な胸に飛び込みたいところだったが、私はなんとか自重した。
やはり
年齢なんか関係ない。
「これからもお姉様と呼ばせてください」と言うと、
ここは押しの一手と身を乗り出した時、「可恋、ちょっと」と赤毛の少女が近寄ってきた。
置き去りにされた私は少女をねめつけそうになったが、かろうじて思いとどまる。
強い者は弱者に優しくあれというのが師匠の教えだ。
師匠の空手の根幹である。
そう、強さとは何も空手だけのことではない。
私は「これも修行」と呟いて席を立った。
††††† 登場人物紹介 †††††
大島
三谷早紀子・・・道場師範代。女性の指導に定評があり関東一円から練習生が集う。彼方を可恋に会わせるために、買い出しに協力した。
保科
キャシー・フランクリン・・・G8。15歳。令和元年に来日した黒人少女。規格外のパワーとスピードを持つ空手・組み手の選手。将来は総合格闘技を目指すように周囲から言われている。
日野可恋・・・高校1年生。大人顔負けの貫禄の持ち主。空手・形の選手だが、戦闘能力は非常に高い。天気が悪いと外に一歩も出ようとしない。
日々木陽稲・・・高校1年生。いまだに小学生と間違われることもある可恋のパートナー。現在は3歳児の
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