第61話 令和3年6月5日(土)「将来の目標」日々木華菜

「カナは良いよね。将来の目標がしっかりあってさ」


 手に持ったシャープペンシルをクルクル回しながら、ゆえが言った。

 今日は朝からわたしの家で勉強会を開いている。

 そろそろお昼近くになったので集中力が切れたのだろう。


「うーん、わたしもこれで良いのかって気持ちが揺れ動いたりするよ」


 わたしとゆえは高校3年生になった。

 受験生だ。

 彼女は文系私大の有名どころを第一志望校に挙げている。

 わたしは管理栄養士を目指し、生活科学系の学部を進学先として見据えているところだ。


「カナなら大学に行かなくてもやっていけるでしょ」


「そう思いたいけど、プロとして求められることはまた違うからね」


 わたしの趣味は料理で、腕には結構自信がある。

 将来もその方面の職に就きたいと願っている。

 ただどういうゴールを目指すのかによって採るべきルートは異なる。

 有名レストランのオーナーシェフなんて高い目標は持っていないが、料理の腕を活かすとひとくちに言っても様々な形態がある。

 専門学校に通ったり下積みを重ねたりして調理師として腕を磨くのもひとつの道だ。


 参考書やノートが並ぶテーブルの上に最後の一枚となったクッキーが載る白い小皿が置かれていた。

 ゆえはそれに手を伸ばし、自分の口に放り込んだ。

 そして、わたしが焼いた菓子の味を堪能してから「カナは知識と技術がある。さらに、もっと上達したいって気持ちもある。貪欲なまでに頑張っているよね。それだけの情熱があれば、絶対にうまくいくよ」と賞賛した。


「周りが褒めてくれるから頑張れるんだよ」


 両親はもちろん、妹のヒナもわたしが作った料理をとても喜んで食べてくれた。

 失敗しても叱るのではなく、どこが問題だったか一緒になって考えてくれる両親だった。

 ヒナからはいつもわたしが欲しい言葉をもらった。

 友だちにも恵まれた。

 特にゆえはわたしを高く評価してくれる。

 友だちがたくさんいて引く手あまたの人気者なのに、わたしを親友と呼んでくれる。


「親の教育の賜物なんだろうね。ヒナちゃんもそうだし。好きって気持ちが大事なんだね。すっごいパワーを感じるもの」


「ゆえだって凄いじゃない」


 ゆえは誰からも一目置かれる存在だ。

 高校生とは思えないほど交友関係が広い。

 趣味は人脈作りと公言し、彼女はそのためにもの凄い努力を積み重ねている。


「オヤジによく言われるのよ。誰それと知り合いだって自慢しても自分の価値は高くならないって」


 ゆえがひとつ溜息を吐いたところで部屋のドアがノックされた。

 お母さんが昼食ができたと呼びに来た。

 車椅子をずっと使っていると足腰が弱くなるということで、家の中ではリハビリがてらに手すりを伝って移動している。

 お母さんをサポートしながらわたしたちはダイニングに向かった。


 お父さんが作ってくれた昼食を摂り終えると、お母さんはニコニコ顔でゆえに自分のスマートフォンを見せた。

 そこにはカラフルな服を着た小さな子どもの写真が映し出されている。


「陽稲がたくさん送ってくれたの」


「可愛いですね」とゆえが写真を見ながら感想を述べる。


「ホントよね。孫ができたらこんな感じかしら」


 まだ高校生のわたしに孫を期待されてもと思うが、この写真の子どもの母親はわたしとそう変わらない年齢だ。

 わたしも子どもは可愛いと思うものの自分の子どもが欲しいという発想には結びつかない。


「平日にひとりで家に居ると寂しいのよね」


「ペットを飼うのはどうですか?」とゆえが話を合わせると、「ネコアレルギーなのよ」とお母さんは肩をすくめる。


 それからしばらくペット談義が続き、孫が欲しいという話は忘れたかに見えた。

 しかし、最後に「心臓のことがなければ、あとひとり産むことも考えたのに」と衝撃的な発言が飛び出し、わたしは目を白黒させることとなった。


 勉強を再開するために部屋に戻ると、「元気そうだね」とゆえがポツリと言った。

 わたしは「うん」と頷く。

 まだまだ体調には波があるようだ。

 今日は元気だったが、口を開くのも億劫という日も少なくない。

 そして何より言動の端々から老けというものを感じるようになった。


「カナがプレッシャーを感じることはないよ」


 ゆえが明るい声で励ましてくれる。

 感情を表に出さないようにしていても彼女にはすぐに気づかれてしまう。

 ポーカーフェイスは得意な方だが、わたしの周囲にはわずかな変化を見逃さない人が多く油断ならない。


「ありがとう。大丈夫。さすがに孫は無理だから」とわたしは苦笑してみせた。


「世の中にはひとりが平気な人もいるけど、ひとりというだけでダメージを受ける人もいるから。わたしもそう。ホント、カナがいてくれて助かってる」


 友だちに不自由していないゆえだからお世辞程度に受け取ったが、「カナには気を使わなくていいから勉強に集中できるし」とゆえはニヤリと笑いながら言葉を続けた。

 わたしは「ありがとう」と微笑み返す。

 ゆえとは中学時代からの友だちだが、ここまで仲良くなったのは高校に入ってからだ。

 彼女との関係もずっと順風満帆だった訳ではない。

 それでもいまこうして一緒にいられて本当に嬉しく思う。


「ゆえがいなかったら、きっと味気ない高校生活を過ごしていたと思う」


 友だちはそれなりにいるものの学校の外でも会う間柄となるとほとんどいない。

 わたしは家族のために料理を作ることを優先しがちなので人づき合いが良いとは言えない。

 ゆえがいなければ、わたしの中で学校の占める比重はもっと低くなっていただろう。


 それに管理栄養士を目指そうと思わなかったかもしれない。

 わたしはあまり勉強が好きではない。

 両親も無理して大学に行く必要はないと言うと思う。

 勉強から逃げたいという思いで将来の選択肢を狭めることになったのではないか。

 いまでさえ大学に行かないという誘惑に駆られることもある。

 そんな時にゆえの存在がわたしの励みとなり、心の迷いを晴らしてくれる。


「可恋ちゃんに頼んだら、女同士で子どもを産めるようにしてくれるんじゃない?」


 ゆえが冗談を飛ばす。

 ゆえとの子どもだったら産んでみてもいいかなと一瞬思ってしまったことは内緒だ。


「可恋ちゃんだったら冗談で済まないから」とわたしは笑いながら言葉を返した。


 わたしは吹っ切れた顔つきで「勉強、始めようか」と声を掛ける。

 心配事があってもいまの自分にできることは限られている。

 目の前にあるやるべきことから目を逸らしてはいけない。

 わたしは恵まれている。

 だから。




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木華菜・・・高校3年生。中学時代からシスコンと友人たちからよくからかわれていた。本人は妹に気づかれないよう相手の前ではつれない態度を取っていたが、妹を喜ばせるため料理に励んだ。


野上ゆえ・・・高校3年生。中学時代から人脈作りが趣味と公言し、他校の生徒とも広く交流を持っていた。高校生になるとイベントや合コンなどを通して高校生・大学生の知り合いを増やし、さらに広い交友関係を持つようになる。


日々木陽稲・・・高校1年生。華菜の妹。姉と異なり、祖父から引き継いだロシア系の外見をしている。その美少女ぶりは非常に目立ち、ひとりで外に出ることを禁じられるほど。そのため華菜について来てもらうことも多い。


日々木実花子・・・華菜と陽稲の母。百貨店でバリバリ働いていたが、昨年末に心臓病を患って緊急入院した。春に退院したが、自宅療養が続いている。


日野可恋・・・高校1年生。陽稲の親友で、昨年の春から彼女とふたりで暮らしている。抜きん出て優秀な頭脳と身体能力の持ち主。華菜にとっては料理の突っ込んだ話ができる相手。ゆえは可恋の人脈の扱い方にコンプレックスを感じている。

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