第60話 令和3年6月4日(金)「母と娘」日野可恋
昨夜から降り続く雨は朝になって更に強まった。
気温も上がらず、私は早々に自主休校を決めた。
ひぃなも休みたがったが、生徒会長と副会長が揃って休むのは良くないと言って送り出した。
昨日突然私が住むマンションに現れた出雲さん母娘はいまもここにいる。
エントランスから部屋まで連れて来たふたりをすぐさまお風呂に放り込んだ。
そして、その間に電話でひぃなの姉の華菜さんにお願いして買い物を頼んだ。
受験生にお願いするのは心苦しかったが、華菜さんは快く引き受けてくれた。
出雲さんが持っていた着替えはすべて洗濯機に投げ入れ、彼女には私や母の服を着せた。
石見ちゃんの分は華菜さんに買って来てもらった。
連絡を受けて母が駆けつけたのは、華菜さんが作った夕餉を食べ終えた頃だった。
そこで初めて出雲さんから事情を聞いた。
その頃には来た時と比べて精神的に随分と落ち着いていた。
彼女たちは最初の緊急事態宣言が解除されたあと関西に戻っていた。
大阪で暮らしていたらしい。
東京では行政やNPOから支援を受けていたが、それが心苦しかったようだ。
しかし、落ち着きを見せていた感染状況が悪化すると仕事を失ってしまう。
知り合いから給付金を受けるように勧められたが、彼女はそれを詐欺だと疑っていた。
コロナ禍で苦しむ人々がいる一方で、支援制度の隙を突いて稼いでいる人もいると聞く。
詳細が分からないので何とも言えないが、その片棒を担がされていたのかもしれない。
春に石見ちゃんを預けていた保育園が潰れたそうで、その後は切り詰めた生活が続いたと彼女は語った。
いまさら実家には頼れない。
東京にならオリンピック関連の仕事があると聞いて再びこちらにやって来た。
だが、住むところもなく娘と一緒では働き口を探すこともままならない。
そこで昨年頼った私の母の力をもう一度借りようとした。
「良かったわ」というのがそれを聞いた母の第一声だった。
「残念なことに苦しくなっても他人を頼ることができない人が日本にはたくさんいるのよ。二度目となると尚更二の足を踏む人も多いでしょう。でもね、自分だけの力で乗り切れるとは限らない。取り返しがつかなくなってからでは遅いわ」
日本はセーフティネットがそれなりに充実している。
だが、それらは周知されているとは言えない。
生活が絶望的な状況になったとしても、行政が自動的に救いの手を差し伸べてくれる訳ではないのだ。
自分から申請することが求められる。
それなのに苦しみの真っ只中にいる人にはそういう情報がほとんど届かない。
NPOなどを利用することでそれらの情報とうまく接続できればいいが、中には貧困ビジネスを目的とするNPOもあって助けを求めることも容易ではない。
事情を話し終えた出雲さんはそのあと娘に何度も何度も「ごめんね」と謝っていた。
食事にも事欠き、ふたりともかなり痩せ細っている様子だ。
こんな状態では冷静に考えて判断することも難しかったはずだ。
貧すれば鈍すると言うように、人間は追い詰められると視野が狭くなり正しい思考もままならなくなる。
おそらく私の母が彼女にとって最後の頼みの綱だったのだろう。
「支援にばかり頼るのではなく自立しようという貴女の気持ちは尊いものよ。でも、行動に移す前に相談したり、行動したあとでもいいから連絡を定期的に入れたりしてくれると貴女を助けたいと思っている人たちも助かるわ」
母はそう言って諭すと、支援のためあちこちに連絡を取り始めた。
すぐに入れる施設もあったようだが、ふたりの体調を考慮して数日ここに留め置くことにした。
「すいません、先生」と学生のような顔で謝罪した出雲さんは、「可恋ちゃんもごめんね」と私に対しても頭を下げる。
そして、「可恋ちゃんに手の洗い方を教えてもらったから感染しなくて済んだのよ」と人懐こい笑みを浮かべた。
昨年2月に彼女たちがここに居た時、ほかのことは無理だったが手洗いは徹底して教えた。
それだけが要因ではないだろうが、感染する事態に陥らなかったことは幸いだ。
「ふたりは高校生になったんだね」と懐かしむような顔で出雲さんは言った。
「はい、無事に」とひぃながにこやかに答える。
出雲さんは「気をつけてね。絶対にコンドームはつけさせないと、こんな風になっちゃうから」と明るく笑って、ひぃなの目を白黒させていた。
今日は朝から「お客様扱いしなくていいからね」と出雲さんは家事をやる気満々だった。
母は仕事、ひぃなは学校に行ったので、家に残っているのは私と母娘の3人だけだ。
私としては石見ちゃんの相手をしていてくれれば良いと思っていたのだが、それだけでは気持ち的に落ち着かないようだ。
「少しでも恩を返さないと!」と彼女は随分明るさが戻っている。
本当はライフハックのひとつやふたつ教えたいところだが、伝える大変さは前回経験している。
彼女が望むようにさせることにして、休憩を取りながら部屋の掃除をしてもらった。
ひぃなに居てもらった方が良かったかなと思いながら私はリビングで仕事をする。
さすがに自分の部屋に引き籠もっている訳にはいかない。
出雲さんはよく動くし仕事も速い。
ただし、丁寧さには欠ける。
私は昼食を一緒に摂りながら「介護の仕事なんてどうですか?」と提案してみた。
「介護?」
「キツい仕事ですが、いまは接客よりは安定していると思いますよ」
ブラックなところも多いようだが、母に聞けば良い環境の事業所を紹介してもらえるのではないか。
石見ちゃんの養育費を稼ぐのは大変だろうが、支援を受けながらならなんとかなるだろう。
娘を抱えながらでは完全に自立することは難しい。
どんな仕事に就くか以上にそこを納得してもらうことが大事かもしれない。
「介護かー」と呟く出雲さんを眺めながら私はそんなことを考えていた。
夕方になり、ひぃなが帰宅した。
大きな紙袋を持っている。
自宅から古い服や布きれを持って来たそうだ。
リビングにミシンを運び込み、早速縫い合わせ始めた。
石見ちゃんだけでなく出雲さんも興味津々な面持ちでその様子を見ている。
「凄いねー。そんなに簡単に服とか作れるんだ」
「小さな子どもの服ならサイズは適当でいけますからね」とひぃなは微笑んだ。
彼女は次々と服を作り出し、着せ替え人形のようにそれを石見ちゃんに宛がった。
その手際の良さはさすがだと感心する。
「丈は直せるようにしておきます。あと、ひもは危険なので基本的にゴムを使ってサイズを調整しますね」
出雲さんから尊敬の眼差しで見られて、ひぃなは得意満面になっている。
さらにひぃなは端布を使って人形を作り、それを石見ちゃんに手渡した。
「この人形、着替えもできるんだよ」とやってみせるが3歳児にはまだ少し難しいようだ。
それでも石見ちゃんは気に入ったようで人形を手放そうとしない。
ひぃなが別の服に着替えさせようとしても嫌がって人形を握り締めた。
「もうひとつ作ってあげたら?」と私が言うと、ひぃなは「うん」と頷きミシンに向かう。
出来上がった人形をひぃなが石見ちゃんに見せる。
すると幼女はそれを「ママ」と呼んだ。
ひぃなは困惑して出雲さんの顔を見る。
出雲さんは「うちにも分からないよー」と笑いながらその人形を受け取った。
彼女は「ママだよー」と優しく語り掛けながら石見ちゃんに向けて人形を振ってみせた。
「ママ!」と人形を放り捨てて石見ちゃんは出雲さんにしがみつく。
ここに来てからおとなしかった石見ちゃんが初めて見せた強い感情だ。
手を離したら二度と会えないと思っているかのように幼子は必死だった。
ママー、ママーという叫び声が部屋を満たしていく。
出雲さんは「大丈夫だよ。どこにも行かないから」と石見ちゃんの背中を抱き締める。
そして、石見、石見と娘の名前を呼んだ。
その声は徐々に泣き声へと変わっていく。
彼女は昨日あのまま姿を消すつもりだったのかもしれない。
娘を私たちのところに置いたまま。
その思いは石見ちゃんにも伝わっていたのだろう。
ひぃなが横に来て、私の左腕に抱きついた。
抱き合う母娘の姿を見て感じるものがあるようだ。
その瞳は潤んでいる。
私は彼女の温もりを感じながら、自分の心の冷たさに呆れていた。
††††† 登場人物紹介 †††††
日野可恋・・・臨玲高校1年生。免疫系の障害を生来持っており厳しい幼少期を送った。そのせいか合理的な思考に偏りがち。
日々木陽稲・・・臨玲高校1年生。ロシア系の血を引き傑出した美少女として幼少期から周囲の視線を集めていた。優しい性格の持ち主。
日野陽子・・・可恋の母。東京にある超有名私立大学の教授。ジェンダーの分野で同性から高い支持を得ている。フィールドワークとして常にいまそこにいる女性の声を聞くことを重視している。
大槻出雲・・・高校を中退して娘を出産した。実家に身を寄せていたが世間体を重視する周囲の視線に耐えきれず出奔した。SNSで知り合った女性のところに身を寄せようとしたが、同居中の男性が石見に暴力を振るいそうに感じて飛び出し、以前フィールドワークに協力した縁で陽子先生に助けを求めた。
大槻
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます