第55話 令和3年5月30日(日)「相談」土方なつめ
「ごめんなさい!」と私は手のひらを合わせて頭を下げた。
「お仕事じゃ、仕方ないですよ」と彼女はニッコリ微笑む。
ここは私が暮らすワンルームマンション。
隣室の玄関先だ。
2週間ほど前に知り合った女子大生の部屋に私は謝りに来ていた。
「いえ、私のミスなの。私がちゃんとしていればこんなことには……」と項垂れる私を、「誰だってミスはあります。気にしないでください」とふんわりとした笑顔で彼女は励ましてくれる。
ふたりともこの春から東京で暮らし始めた。
彼女は大学生、私は社会人だが新しい環境に慣れ始めた頃に緊急事態宣言が出た。
大学はオンライン授業となり、私の勤務は在宅ワークとなる。
友だちなどの人間関係が構築する前にこうなってしまったので、お互い自分の部屋で悶々としながら過ごしていた。
些細な出来事をきっかけに知り合い、それから彼女は私を食事に誘ってくれるようになった。
私にとっても渡りに舟だ。
とはいえ毎日ご馳走になる訳にもいかない。
1日おきくらいにして彼女の負担にならないよう気をつけている。
それにお礼も必要だ。
お菓子の差し入れなどはしたが、手料理を作ってくれる労力に見合っているとは思えない。
そこで休日の今日、レンタカーを借りてドライブに行こうと話していたのだ。
ところが、昨日突然上司から仕事を命じられた。
私はF-SASという女子学生アスリートを支援するNPOの職員である。
東京オリンピックパラリンピックで代表選手に対してワクチン接種が行われることとなり、女子の学生年代の対象者へF-SASから支援のパンフレットを送ることになった。
ただ、各種競技団体を通してとなるといつ届くことになるか分からない。
残念ながらF-SASの知名度は高くはない。
オリンピックパラリンピックが目前に迫るこの時期に競技団体がF-SASの要望を即座に受け入れることは難しいだろう。
そこで様々な伝手を頼って選手本人と直接コンタクトが取れないか試みることとなった。
その際にこちらの連絡先をF-SAS事務所にしておけば良かったのだが、私のアドレスにしてしまった。
あとで気がついて修正の連絡を入れたものの、それが伝わる保証はない。
折角相手から連絡が届いたのに私がすぐに対応できなかったら迷惑が掛かる。
ということで、今日は1日自宅で待機する羽目になった。
かなりしどろもどろになりながら事情を説明した。
彼女は楽しみにしてくれていたようで、普段以上に可愛らしい服装で私を出迎えてくれた。
それを見て、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「楽しみはあとに取っておきますから大丈夫ですよ」
「上と相談して来週はちゃんと休みをもらえるようにするから」と涙目で私は誓う。
「連絡を待つだけなら、ずっと部屋にいるんですか?」
「うん、そうなるね」
「じゃあ、今日は土方さんの部屋に行ってみたいです!」
彼女は胸の前で指を組み、祈るように私を見つめた。
こんな女の子らしい女の子にそんなポーズでお願いをされて断れる訳がない。
しかし、「でも、私の部屋って本当に何にもないよ。絶対にがっかりするよ」と言わざるを得ない。
彼女の部屋と比べると一流ホテルのスイートルームとカプセルホテルくらい違う。
どちらも泊まったことはないけど。
いまどきの男子にも負けているんじゃないかと思うくらいだ。
「構いません。だって人の部屋って何だかドキドキするじゃないですか」
緩やかなウェーブのかかった髪は明るいハイライトが入っている。
私の不慣れなメイクと違い、ナチュラルな薄化粧がよく似合っていた。
こんな素敵な女子大生を私の部屋に入れていいものか。
そう思いつつも私に断るという選択肢はもうなかった。
「どうぞ」
「お邪魔します」
カーペットやカーテンはあっても殺風景な部屋だ。
彼女の部屋と同じ間取りなのにここまで違うものかと思ってしまう。
「社会人の部屋って感じがしますね」
「単にオシャレとか分からなくて、手つかずってだけだよ」
言っていて虚しくなるが、それが事実だ。
高校時代は流行を追うよりもどうすればクロスカントリースキーが上達するかしか考えていなかった。
「分かります。わたしもそうでしたから」
「えっ?」と驚きの声を上げる。
「わたし、高校時代はお下げ頭にメガネを掛けて、オシャレなんか全然気を使わないダサダサな女子高生だったんです」
全然そんな風には見えない。
東京に出て来たばかりとは思えないほど彼女は垢抜けている。
「姉が……大学に行かずに地元で就職した姉が、わたしが上京することになってからもの凄く熱心に一から教えてくれたんです」
「へぇー」と私の口から出るのは感心の声のみだ。
「それまで特に仲が良かったって感じじゃなかったんですけど、東京に来るまでの数週間だけ姉妹らしいことをしました」
「良いお姉さんだね」と私が褒めるとえへへと照れたように微笑んだ。
そんな彼女に飲み物を出そうにも洒落た雰囲気のグラスすらない。
100均で揃えたコップにペットボトルの炭酸飲料を注いで出す。
あとはコンビニで買ったお菓子類くらい。
掃除は毎日しているものの、とても人を呼べる部屋ではないと実感した。
「こんなものしかなくてごめんね」
「いえ、わたしが押しかけたのですから気にしないでください」
そう言った彼女は部屋を見回し、「落ち着きます」と表情を緩めた。
オンライン授業やビデオチャットで背景が映り込むことを考慮して部屋を飾っているが、自分の部屋というには違和感があるそうだ。
彼女らしい部屋に見えていたが、少し背伸びをしている感覚なのかもしれない。
ちょこんと女の子座りをしている彼女がいるだけで部屋が華やいで見えた。
床に放置してあるダンベルに興味を示し、持ち上げては「うわー、重いんですねー」と感心している。
そうした反応の新鮮さに胸がときめいた。
ベランダからは陽差しが降り注ぐ。
忘れかけていた日曜日特有ののどかさのようなものを体感する。
彼女もリラックスしているようだ。
こうして会話していなくても負担に感じないのは波長が合うからだろうか。
お互いまったりしながらポツリポツリと話しているうちに、彼女が改まって姿勢を正し「あの……」と口を開いた。
私も居住まいを正して「どうしたの?」と応対する。
「最近、わたし、友だちから遊びに行こうって誘われるんですけど、一歩を踏み出す勇気がなくて……」
彼女は自分の部屋で見せるふわっと甘くコーティングされた姿ではなく、素の感情を私の前にさらけ出した。
私が「遊びに行きたいの?」と尋ねると、「遊びに行きたいというより、みんなにもっと馴染まないとって思って……」と心細そうな声が返って来た。
怯える子鹿のような彼女に私はお腹から声を出して答える。
「いま私がメインにしている仕事は女子学生からの相談の回答なの。トレーニングのような専門的な質問は専門家に割り振るんだけど、精神的なものだとマニュアルに沿いながら私が答えるの」
正直社会経験がほとんどない私にそんな相談の回答ができるかどうか不安だった。
いまも胸を張って自信があるとまでは言えない。
それでも少しは自信をつけたと思う。
「そういう質問は、背中を押して欲しいというものと、止めて欲しいというもののふたつに分類できると思うの」
目の前にいる私と同じ歳の女の子が食い入るようにこちらを見ている。
私がため口で良いと言っても、社会人相手だからと彼女は丁寧な話し方を変えようとしなかった。
自信のない顔つきが私の次の言葉を待っている。
「
「どうしてそう思うんですか?」と当然の質問を彼女は返す。
「さっき自分で言ったじゃない。遊びに行きたいんじゃないって。周りに合わせるためなら行かなくていいんじゃないかな」
「……そうでしょうか?」と思い詰めた表情で問い掛けた。
「自分が本当にやりたいことは何か、心の声を聞いてみて。私は、藤間さんはとても魅力的だからもっと自信を持っていいと思うの」
彼女は容姿だけでなく、東京の有名大学に入れるほど頭が良いし、それだけ努力を積み重ねて来たのだと思う。
人当たりも良く、優しく、料理も上手だ。
私が男だったら放っておく訳がない。
「心の声ですか」と呟いた彼女は両手を自分の胸に当てた。
胸元も女性らしくふくよかだ。
天は彼女に二物も三物も与えている。
私が勝っているのは体力くらいのものだろう。
俯きがちに瞑想していた彼女はやがてゆっくりと顔を上げ目を開ける。
その瞳に光が差している気がした。
「分かりました」という声に先ほどまでの不安定さは感じられない。
そして、彼女は口の中でぶつぶつと呟く。
よく聞き取れなかったが、運命の出会いがどうとかこうとか言っているようだった。
私は彼女が元気になったことに気を良くして、「少し早いけどお昼を食べに行こうか」と提案する。
彼女は華やかな笑顔で「はい」と元気良く頷いた。
しかし。
このまま外に出ようとしたら、「着替えませんか?」と声を掛けられた。
確かに、デートっぽい装いの彼女と釣り合いが取れない。
私は部屋着を兼ねたTシャツとトレーナー姿だ。
だが、仕事用のスーツ以外、まともな服を持ち合わせていない。
もう少しマシなものを物色するためにクローゼットを開けようとしたら、彼女がぴったり横に立っている。
なんだか恥ずかしい。
「もしよろしければお見立てします」
ゆるふわな印象は変わっていないのに、これまでより押しが強くなった気がする。
悪いことではない。
悪いことではないが、やはり恥ずかしい。
なんだかもぞもぞする。
「じゃあ、お願いしようかな」と言った私の声は裏返りかけていた。
††††† 登場人物紹介 †††††
土方なつめ・・・高卒社会人1年目。自家用車が1家に1台ではなくひとり1台あるのが当たり前の田舎から東京に出て来た。18歳になると運転免許を取るのが当たり前の土地柄で、彼女も卒業前に取得した。
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