第54話 令和3年5月29日(土)「懸念」日野可恋

『ワクチン、今回は打たないことに決めた』


『そうですか』


『オリンピックの空手競技の開幕まで2ヶ月余り。その短い期間で副反応の可能性があるワクチン接種を2回行うのはリスクが高いから』


 電話の相手は東京オリンピック空手・形の日本代表、神瀬こうのせ舞さんだ。

 メダルは確実視され、金メダルにもっとも近い女性のひとりである。

 試合に向けて最後の調整に入ったこの時期に不安要素を採り入れたくない気持ちはよく分かる。


『形は組み手と違い他者との接触もありませんからね』


『そう言って我がままを通してもらったわ。ただ強制ではないとは言うものの圧は凄かった。私が学生だったら逆らえなかったかもしれない。F-SASでできるだけサポートしてあげて』


 彼女は女子学生アスリートの支援を目的としたNPO法人”F-SAS”のアドバイザーを務めている。

 この発言はF-SAS代表の私への依頼と受け取っていいだろう。


『分かりました。各競技団体を通じてワクチンの正確な情報をひとりひとりに伝えるために動いているところです。こうしたメッセージを届けられるようこれからも努力します』


『お願い』と頼む彼女の声には元気がなかった。


 本来であれば、日本中の期待を背負いオリンピックに向けて気持ちを高めている時期だ。

 いまは選手に向けられる視線は厳しいものが多く、容易に頑張ると言えなくなっている。

 とはいえ中止や再延期が決定しない限り、開催を前提に準備しておくことしかできない。

 自国開催というプレッシャーもあるのにこの新型コロナウイルス関連の重圧にも晒され、精神的な負担はどれほどのものだろうか。


 精神的な励ましの言葉を掛けるのではなく、具体的なトレーニングメニューについてのやり取りをしてから電話を終えた。

 ほかの競技なら3年後を考えるという選択肢もあるかもしれないが空手には次がない。

 パリオリンピックでは空手競技は実施競技に含まれていない。

 救済措置なども施設の準備等の関係から難しいだろう。

 言いたいことが言えない状況で、すべてを胸の中に収めて試合に向けて集中するのみとなっている。

 そんな彼女に私が掛ける言葉などあるはずもない。


 私はひとつ息を吐いて気持ちを切り換える。

 考えても仕方がない。

 私もできることをするだけだ。

 ノートパソコンを使ってビデオチャットを始める。

 相手は”F-SAS”職員の土方さんだ。


 F-SASはコロナ禍になる前は週末に女子学生を対象にしたイベントや講習会を企画していた。

 そのため正規職員は土日のどちらかは仕事をしてもらう規則となっている。

 現在はイベントを行う環境にないので休んでもらっても構わないのだが、私が時間を割けるのが土日メインなのでこのルールを継続している。


 挨拶を交わしてから、先ほど舞さんと話した件を土方さんに伝える。

 在宅ワークなので服装は自由なのに、彼女はスーツを身につけていた。

 社会人になって2ヶ月余り経ち、その服装にも馴染んできたようだ。


『どこも手が足りないようで、こちらの話に時間を割いてもらえません』


 土方さんはそう言って肩を落とす。

 F-SASは法人化して1年ほどしか経っていない。

 イベントもできない状態が続き知名度を上げる機会がほとんどない。

 インターネット上で動画配信をしてターゲットの若者たちには少し知られるようになったものの、各種競技団体の人たちからは認知されているとは言い難い状況にあった。


『いまは代表レベルの選手たちはSNSに近づかない方が良いから、直接コンタクトを取るのは難しいですね』


 私もそう言って嘆息する。

 ネット上では選手本人が五輪に対する意思を表明しろという意見も見掛けるが、これまでスポーツ選手の政治的な発言を批判してきたのは国民自身だ。

 プロアスリートならいざ知らず、アマチュアの選手に突然そういった重荷を背負わせようとするのは手のひら返しと言えるだろう。


 土方さんもつられたように溜息を吐き、『東京オリンピックパラリンピックって本当に開催されるんでしょうか?』と呟いた。

 おそらく日本中、いや世界中の多くの人が同じ疑問を抱いているはずだ。


『開催して大規模なクラスターが多発する事態が起きる可能性はそう高くないと思います』


 私の言葉に土方さんは顔を上げ、自分のパソコンに取り付けられたカメラを覗き込むように見た。

 あとに続く言葉を待つ彼女に私は思考を整理しながら語り掛ける。


『開催によって人流が増え新たな波が発生する確率は低くはないでしょう。ただし、オリンピックを中止しても現在のワクチン接種のペースでは次の波は避けられないと思います』


 私は右手を固く握り締め、それを左手で包み込む。

 そして、『開催した場合、開催しなかった場合より新規感染者数が微増となる確率が高いと思われますが、それをどう判断するのかは政治の仕事でしょうね』と努めて感情を出さずに述べた。


 感染症対策だけを考えれば中止と判断するべきだが、経済的リスクなど中止に伴うリスクも当然存在する。

 動き出した巨大プロジェクトは止められないという悪癖もあるだろう。

 人は確実な未来を知ることはできない。

 だから、迷う。

 迷っているうちに時間が過ぎていき、さらに引き返せなくなってしまう。

 責任を負って決断できる人物がいるかどうか。


『政治ですか……』と土方さんはピンと来ない様子だった。


 私より歳上だが、高卒の社会人1年目だ。

 まだ選挙も経験していないだろう。

 政治が遠い世界の出来事のように感じるのも無理はない。


『選挙もですが、意見を表明するだけでなく具体的な行動に移す。デモだとか陳情だとかひとりよりも集団になって目に見える行動を起こすことが「政治」だと言えますね』


 私の母は大学教授だが、女性支援の活動のために与党野党問わず多くの政治家と関わりを持っている。

 100か0かで考える人にはそういう活動は裏切りと取られることもある。

 だが、そういう活動を重ねてきて1ずつ積み上げていまがある。

 オリンピックパラリンピックも開催か中止かの議論だけでなく、開催するにしてもより厳しい制限の下で行うといった話し合いも必要だろう。


『開催できるかどうかは私たちが考えても仕方ありませんが、開催したあとのスポーツ界が被るダメージについてはいまから備えておいた方がいいかもしれません』


『ダメージですか?』と土方さんは首を傾げた。


『国民の反対を押し切って強引に開催した場合、エリートスポーツに対しての国民の目は厳しくなると思います。選手強化に税金が使われていますし、様々な社会の人々によるサポートがあってスポーツは成立していますが、風当たりはきつくなるでしょう』


『……そうですね』と頷く彼女の声も沈んでいる。


 もちろん日本人がスポーツをすべて排除しようとすることはない。

 メジャーなスポーツは今後も人々に支持されるだろう。

 しかし、マイナー競技にとっては冬の時代が到来する可能性がある。


 そんなマイナー競技出身の土方さんは『私たちはどうすれば良いでしょう?』と切実な声を上げた。

 私は『地道な啓発活動と支援活動を続けていきましょう』とお茶を濁す。

 言えるものなら「いまのIOCに取って替わる組織を立ち上げて新しい世界のスポーツの祭典をやろう」と言いたいところだが、さすがに私の力を持ってしても不可能だ。


 私は私のできることをするだけ。

 そう自分に言い聞かせ、F-SASの対象となる女子の学生年代にあるオリンピック代表選手へコンタクトを取るという困難な使命を土方さんに割り振った。




††††† 登場人物紹介 †††††


日野可恋・・・臨玲高校1年生。NPO法人"F-SAS"共同代表。空手・形の選手であるとともに、トレーニング理論の論文を執筆する研究者でもある。


神瀬こうのせ舞・・・空手・形の日本代表。金メダル候補のひとり。彼女の妹である結が可恋と知り合い、その縁でF-SASのアドバイザーを引き受けた。


土方なつめ・・・F-SAS職員。この春高校を卒業して上京したばかり。高校時代はクロスカントリースキーの選手だった。

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