第42話 令和3年5月17日(月)「初めての……」土方なつめ
今日は朝から曇り空で小雨がパラつく天候だ。
こんな日がしばらく続くらしく、少し気が滅入る。
地元には梅雨がなかったので初体験にワクワクするような気持ちがないと言えば嘘になる。
だが、洗濯物が乾かないという実害の前にいつまでその感情が保つか怪しいものだ。
テレワークが続く中、このワンルームマンションにしておいて良かったと心から思うのが小さいながらもベランダがあることだった。
気分転換は大切だ。
朝ジョギングをして昼や夕方には散歩がてらに買い物に行くものの、それだけだと気が詰まってしまう。
ただでさえ東京は開放感がない。
ベランダからだとちょっぴり違って見えて、楽に息ができるように感じられた。
雨だとゆったりベランダに居られなくなるが、幸いいまは止んでいた。
私は一段落したタイミングで席を立ち、大きく伸びをしながらベランダに向かう。
ジメジメとした蒸し暑さは辟易するが、ベランダに出ると風があって心地いい。
「こんにちは!」
隣りのベランダに人の気配を感じて私は大きな声で挨拶をする。
東京では挨拶をしても会釈を返してくれるだけのことが多い。
酷い時には無視されることもある。
それでも私はめげずに挨拶を続けている。
この隣人もいつもは小声でボソボソと返事をするのみだった。
しかも、すぐに部屋の中に引っ込んでしまう。
迷惑なのかもしれないが、挨拶をしないというのも気持ちが悪い。
挨拶をしてもしなくても結果は同じと割り切ることにした。
そんな彼女が今日は挨拶のあともベランダに残っていた。
仕切りがあるので顔はよく見えないが、普段と違う様子であることはうかがえた。
「どうかしましたか?」と私から声を掛けてみた。
先日上司から私のように上京してこの東京で繋がりを持てずに孤独に陥っている若者がたくさんいるんじゃないかという指摘をされた。
それ以来このワンルームマンションにもそういう人たちがいるかもしれないと考えるようになった。
「あの……」と言い淀んでいた隣人は「パソコンに詳しかったりしますか?」と藁にもすがるような声を出した。
「私自身はそんなに詳しい訳ではないですけど、調べたり聞いたりはできますよ」
まだ勤務時間中だが困っている人を見掛けたら放ってはおけない。
これも何かの縁だ。
「突然動かなくなって……。スマホだと課題の提出ができなくて……」
話を聞くと、彼女は地方出身の大学生だそうだ。
オンラインでの授業に備えて実家から父親のパソコンを持って来たのにそれが動かなくなったらしい。
父親は仕事中だし、ほかに相談できる相手もいなくて途方に暮れていたと話してくれた。
見てみないと始まらない。
私も東京に出て来て仕事に必要だからとパソコンを購入した口だ。
利用し始めて1ヶ月ほどの初心者だが、私が就職したNPO法人には詳しい人が多くて助かっている。
ひと言断った上で隣室に向かう。
インターホンを鳴らしドアを開けてもらう。
出て来た彼女はふわっとした感じの女性だった。
家にいるだけなのにしゃれたブラウスにカーディガン、淡い色合いのスカートがよく似合っている。
同じ上京1ヶ月半でも垢抜け方に相当な差があった。
私なんて安手のTシャツにスウェットパンツだよ。
部屋の中も殺風景な私の部屋とは大違いだ。
女の子らしい小物が飾られ、良い匂いがした。
女子力の差が天と地ほどありそうで、私は頭の中で「ヤバっ!」と叫んでしまった。
その部屋の中で場違いな感じがするのが、小型のテーブルに置かれた大きめのノートパソコンだ。
普通の女の子だと持ち運ぶのは大変だろう。
パソコンの画面は暗いままだ。
彼女が何度か電源ボタンを押してもうんともすんともいわない。
私も押させてもらうがもちろん何の反応もない。
「今日はずっとこんな感じなんです」と彼女は困り顔だ。
スマホで調べてみたそうだがよく分からなかったらしい。
彼女は「まだ仲が良いって言えるほどの友だちがいなくて……。緊急事態宣言が出て会えませんし……」と身近に頼れる人がいないことを嘆いた。
「ですよねー」と共感した私は自分のスマホを手に取り、「先輩に聞いてみます」と電話を掛けた。
『倉持さん、ちょっと良いですか? あの、隣りの部屋の人がですね……』
倉持さんは大手スポーツ用品メーカーから出向中の人で、私に仕事のイロハを教えてくれた先輩だ。
彼女は『まだ仕事の時間よ』と苦笑しながら私の話に耳を傾ける。
『電源っぽいね。バッテリーか電源アダプターに問題あるかも。バッテリーを外せる機種ならそれを試してみたら?』と私の拙い電話での説明だけでアドバイスをしてくれる。
隣人にノートパソコンの型番を調べてもらい、スマホで検索してバッテリーの外し方を確認する。
ちょっと力が必要で壊さないかとドキドキしたが、なんとか外すことができた。
改めて電源アダプターを繋ぎ、電源を入れる。
稼働音が聞こえた。
私は隣人の彼女と顔を見合わせる。
「やったね!」
「ありがとうございます」
無事にノートパソコンが立ち上がった。
私はやり遂げた満足感に浸りながら、「それじゃあ、これで」と部屋を出て行こうとした。
「あ、待ってください。せめてお茶でも」と彼女は慌てたように手を胸元で合わせる。
ちょっとくらいならという誘惑に駆られたが、仕事をサボってばかりはいられない。
私は片手をごめんという感じに上げて、「仕事中だから」と辞去しようとした。
「あ、だったら、夕食はどうですか? お礼をしたいです」
可愛い女の子にそう言われては断れない。
というか、同世代とのお喋りに飢えていた。
「お礼をしてもらうほどたいしたことはしていないけど、お言葉に甘えようかな」と私は頭の後ろに手を当てた。
彼女は嬉しそうな顔で「良かった。腕によりをかけて作りますね」と声を弾ませる。
……ヤバい、トキメクよ。
私は田舎育ちの上、仲が良かったのは色気より食い気という面々ばかりだったのでもの凄く新鮮に感じる。
「本当に気を使わないでね」という私の声もウキウキした気持ちを隠せなかったのではないか。
パソコンと本とダンベルくらいしかない部屋に戻る。
仕事を再開する前に、気持ちを切り換えようと大きく息を吐く。
しかし、それからの数時間は「仲良くなれたらいいな」とか「服をどうしよう」とかそんなことばかりが頭の中に浮かんで、ほとんど仕事に手がつかなかった。
ごめんなさい!
††††† 登場人物紹介 †††††
土方なつめ・・・高卒でNPO法人”F-SAS”に就職した。高校時代はクロスカントリースキーの選手だった。現在F-SASの会員用掲示板で相談に答えるのがメインの仕事。
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