第40話 令和3年5月15日(土)「強さとは」保科美空

 ゴールデンウィークに県の大会が行われた。

 中学生と高校生を対象にした空手大会だ。

 あたしはそこに出場し、なんと優勝してしまった!


 実力がついたということもあるとは思うけど、それ以上にとても運が良かった。

 トーナメントで有力選手が反対側のブロックに集まった。

 その中でも優勝候補だった選手が準決勝の試合中に怪我をして棄権した。

 それによって勝ち上がった選手は決勝戦で集中力を欠いていた。

 本当に幸運が重なったことによる優勝だった。


 それでも、もちろん嬉しかった。

 心の底から喜んだ。

 周りにも祝福してもらった。

 自信もついた。

 この1年間試合ができない時期が長かったけど、頑張ってきた甲斐があったと思った。

 次は全国だと気合も湧いた。

 良いことずくめと考えていたのに……。


 それから10日ほどが経ち、あたしはいまどん底にいる。

 なぜかはよく分からないけど、あの優勝以来稽古中にフッと集中が途切れるようになったのだ。

 最初は浮かれているだけかと思った。

 だから、気を引き締めようとした。

 しかし、引き締めているつもりなのに、練習の最中にボーッとする時間ができてしまう。


 当然そんな状況は危険極まりない。

 繰り返し注意を受け、それでも改善できないから組み手の稽古は禁止された。

 師範代からは気分転換をしてみたらと言われたが、ほかのことをしていてもどうしても空手のことに意識が行ってしまう。

 それでいて空手の稽古中には気が抜けるのだから訳が分からない。


 あたしの通う道場の朝稽古はもの凄く練習の密度が高く、一瞬たりと集中を切らすことができない。

 従って、いまのあたしは参加を許されていない。

 折角コンスタントに朝稽古への参加を認められるようになったのに、こんなことになって残念で仕方がない。

 あまりにも悔しくて見学だけでもさせて欲しいと頼み込み、今朝も道場の壁際で大人たちの稽古を眺めていた。


「中学もテストの時期なんじゃないの?」


 朝稽古の終了直前に道場内にやって来た日野さんに声を掛けられた。

 あたしは「おはようございます。昨日終わりました」と挨拶しながら答える。

 朝稽古は午前6時から1時間休みなく行われるかなりハードな練習だ。

 彼女はそれには参加せず、数人での稽古を毎朝行っているそうだ。


 朝稽古の参加者が道場から次々に出て行く。

 その身体からは水蒸気が立ち上っている。

 床のモップ掛けにはあたしも参加した。

 そして、綺麗になった道場の中央に日野さんが立った。


 師範代が腕を組んでその様子を見つめている。

 日野さんは女子にしては長身で、スケールの大きな演武を行う形の選手だ。

 すでにウォーミングアップを済ませていたようで、彼女の流れるような身体の動きは美しさだけでなく迫力もあった。

 わたしは彼女の演武に引き込まれ、拳を握り締めながら凝視した。


 日野さんはほとんど休む間もなく次々と形を繰り出す。

 ……あ、ダメだ。

 自分の頭の中に靄がかかっていくのを感じる。

 必死にその靄をどうにかしようと思うのに、立ち尽くすことしかできない。

 なんとか靄が晴れ、改めて意識を日野さんの演武に移す。

 集中が切れるのはそんなに長い時間ではない。

 だが、突然そうなってしまうから厄介なのだ。


 演武を終えた日野さんがあたしのところに真っ直ぐやって来た。

 無表情で怖さを感じるが、それが彼女の普段通りだ。


「組み手の相手をしてくれる?」


 その言葉にあたしは日野さんではなく師範代の方を見る。

 師範代は少し困った顔をしたが、軽く息を吐いてから頷いた。


「はいっ」と大声で返事をしてから準備運動を手早く行う。


 日野さんはその間呼吸を整えていた。

 彼女は形の選手だが、組み手も強い。

 もの凄く強い。

 この道場にいる高校生以下の女子選手では相手ができるのはキャシーさんだけだ(キャシーさんは厳密にはうちの道場所属じゃないけど)。


 あたしも呼吸を整え気合を入れ彼女の前に立つ。

 こうして誰かの前に立つことも久しぶりだ。

 彼女は「仕掛けてきて」と声に出し、あたしは「お願いしますっ」と叫んですぐに踏み込んだ。


 いつ、また集中が途切れるか分からない。

 日野さんならあたしがそうなった時もフォローしてくれるはずだ。

 その信頼があるので、なんとかそうなる前に全力を出し切りたい。

 あたしは反撃を恐れず手を足を繰り出していく。

 彼女は見切ったようにそれを受け流す。

 本気でカウンターを狙われたらあっという間に決着がついていただろう。

 いまは何も考えず、身体が動くままにひたすら攻めた。


「ここまでにしましょう」と日野さんに言われた。


 一方的に攻めたあたしは肩で息をしている。

 それに比べて受けに回った日野さんはほとんど疲れを見せていない。

 攻めが単調すぎて相手の余裕を奪うことさえできなかったからだろう。

 力の差は歴然だ。


 師範代が近づき、いまの稽古の内容を指導し始めたところでまたも靄に覆われた。

 ふと気づくと、「美空みくちゃん、大丈夫?」と師範代の顔が曇っていた。

 あたしは土下座しようと本気で思った。

 それを察した日野さんが「謝らなくていいから」とあたしの腕をつかんでくれなかったら、間違いなく土下座をしていただろう。


「脳震盪の後遺症の可能性があるし、メンタルの問題かもしれない。どちらにせよ病気が原因と考えられるから謝る必要はないわ」


「頭をひどくぶつけたりなんてしていませんよ」と日野さんに反論すると、「軽く当たっただけでも起きることはあるから」と言われた。


 日野さんは師範代に対して「近年欧米では脳震盪のリスクの高さが認識されるようになってきました。格闘技界はまだ軽く見る傾向にあるので注意が必要です」と顔をしかめて苦言を呈した。

 師範代は「私のミスだったわ」とずっと歳下の意見を認め、頭を下げている。


「美空ちゃんには私の認識不足で苦しい思いをさせてしまいました。本当にごめんなさい」


 師範代は私にも誠意を持って謝ってくれた。

 あたしは恐れ多くてどう対応していいか分からない。


「脳震盪と確定した訳ではないので、まずは検査を受けて。その結果を見て原因を探っていきましょう」


 日野さんはそう言うと土曜日でも診てくれるところを紹介すると師範代に語った。

 師範代は車で一度あたしを家まで送り、家族の承諾をもらってからそこに連れて行くと説明した。


「自分の身体のことだから他人任せにせず少しずつでも知る努力をした方がいいわ」


 日野さんの忠告にあたしは素直に「はい」と頷く。

 詳しくは知らないが、彼女は病気になりやすい体質だそうで練習もあまりできないようだ。

 それでも限られた時間の中でトレーニングを行いこの強さを保っている。


 誰かが悪い訳じゃない。

 あたしはすぐに治るだろうと思っていたし、師範代もきっとそうだったに違いない。

 最初はみんな軽く考えていた。

 こんなに長引くなんて予想外だった。

 でも、それって目を逸らしていただけだったのかもしれない。

 問題と向き合うことから。

 空手が少しくらい強くたって、本物の強さを身につけたことにはならない。

 あたしにとってそれを知った朝だった。




††††† 登場人物紹介 †††††


保科美空みく・・・中学2年生。組み手の選手。有望株として期待されていた。


日野可恋・・・高校1年生。形の選手。F-SASという女子学生アスリート支援のNPO法人代表を務め、医学的な事柄にも造詣が深い。生まれつき免疫系の障害がある。


キャシー・フランクリン・・・G8。15歳。令和元年の夏に来日し、可恋の弟子のような形で空手を学んでいる。東京在住で、こことは別の空手道場所属。


三谷早紀子・・・この道場の師範代。引退後にアメリカでの指導経験があり、スポーツ医学の知識も持ち合わせている。軽度の脳震盪なら安静にしていれば大丈夫という判断だったが、長引いたため可恋に相談した。

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