第37話 令和3年5月12日(水)「テスト前」湯崎あみ
つかさはメガネを掛けると可愛らしさが3割増す……気がする。
放課後の部室はわたしとそのつかさとのふたりきりだ。
ろくに勧誘をしていないので今年の新入部員はゼロ。
一度、部として認められるとひとりでも在籍していれば継続できるという緩いルールのお蔭でのんびりと構えていられる。
緩いルールと言えば中間試験直前なのにこうして部室にいられることも同様だろう。
この高校は部活動が盛んという訳ではないのに顧問であってもあまり強く口出しができないらしい。
そういう全体的な緩さはお嬢様学校っぽくて結構気に入っている。
「先輩って受験するんですよね?」
唐突につかさが尋ねた。
彼女はどこか猫っぽい。
しなやかな体躯、キュートな丸顔、好奇心に満ちた瞳といったところがそう思わせるのだろう。
しかし、いまは困惑するように眉尻を下げていた。
「うん、まあね」
偏差値的にはそんなに高くないものの、この高校で卒業後すぐに就職する人はあまりいないようだ。
家で”花嫁修業!”をする生徒はいるようだが、たいていは大学に進学する。
私は家庭教師に来てもらい、そこそこの成績を維持している。
きっとそこそこの大学に進学し、その後は親に言われるまま結婚することになるだろう。
親が強権を振りかざす訳ではない。
ただこうした方が良いという意見に逆らおうとしないだけだ。
この高校に入学したのだってそうだ。
たぶん、自分で責任を持って何かを選択するということが怖いのだと思う。
ぬくぬくとした日常をだらだらと生きていきたい。
ただそれだけを望んでわたしは日々を過ごしている。
「ですよねー」と言ったつかさは、「クラスの友だちが予備校に通い出してプレッシャーを感じているんです。でも、部活を辞めたくないし……」と俯きがちに言葉を続けた。
「えっ、あっ、両立、両立できるんじゃない?」とわたしはしどろもどろになりながら声を掛ける。
文芸部なんて放課後にふたりで本を読んでいるかお喋りしているかしか活動していないクラブだ。
予備校に行くとしても部活動はそんなに負担にはならないはずだ。
「予備校に行っている友だちによると、臨玲は授業の進行とかが遅くてガッツリ予習しないと予備校の講義について行けないらしいんですよ」
確かに良い大学を目指している生徒の多くは学校の授業中にほかの勉強をする「内職」を行っている。
教師も大目に見ているのが現実だ。
家庭教師なら生徒の進度に合わせて教えてくれるが、予備校となると追いつくまでが大変だろう。
わたしは3年生だし、いつか部活動を辞める日が来る。
つかさとお別れする時期が来ると覚悟はしていたが、これはあまりにも早過ぎる。
彼女のためを思えば受け入れるしかないと分かっていても、どうにかできないかと思ってしまう。
「えーっと……、あー、そうだ、わたしが勉強を教えるのはどうかな?」
苦肉の策として思いつきを口にしたがまったく自信はない。
わたしは専願だったので臨玲の受験はそれほど苦労をせずに済んだ。
つかさは二次募集で入学したと聞いている。
かなり成績が良くないと厳しいと聞くし、実際二次募集組は成績優秀者が多い。
「先輩が教えてくれるんですか!」とつかさは目をキラキラさせている。
「文系だったよね?」と確認し、「はいっ」と頷くのを見て胸をなで下ろす。
「じゃあ中間試験前だし、それに向けた試験勉強をしようか?」
元気良く「分かりました」と返事をしたつかさは鞄から教科書やノートを取り出した。
文房具はいかにも女子らしいファンシーなデザインのものだった。
向かい合って座っていたわたしは家庭教師に教わる時と同じように彼女の隣りの席に移動する。
「数学なんですけど」
「ゲッ……」という呻き声は幸いつかさの耳には届かなかったようだ。
「あー、数学ね。……どこ?」と何とか挙動不審にならずに応対できたが、心臓は早鐘を打っていた。
わたしの志望は私大文系なので数学は受験科目に入らない。
性格的に内職は苦手なので授業は真面目に聞いていたもののちゃんと理解しているかは怪しいものだ。
そんな状態で果たしてキチンと教えることができるのか。
その不安は杞憂に終わらなかった。
なんとなく理解しただけのものを適当に言葉を並べて説明してもうまく伝わらない。
わたしのすぐ隣りでうんうん唸りながら悩んでいる姿を見ていると、わたしの教え方の悪さが余計に混乱を与えているようにも思ってしまう。
「ごめん、つかさ」
「先輩のせいじゃないですよ」とつかさはこちらを向いた。
こんな時なのにいつもより距離が近いせいでドキドキしてしまう。
彼女はさらに顔を近づけ、「おでこ同士をくっつけあったら考えがそのまま伝わったらいいのに」と笑った。
「絶対ダメーーーーー!!!!!」と叫び出したくなる。
だって、わたしのこの秘めた想いをつかさに知られてしまうのだから……。
そんなことは絶対にダメだ。
いまのこの関係を壊すことはできない。
同時に、「いいよ」と囁いておでこをピタリと密着する姿も思い浮かべる。
その前に「メガネが邪魔だね」と外してあげた方がいいだろうか。
そして、ふたりは……。
妄想が頭の中を駆け巡り、まともに彼女を見られなくなってしまった。
思い切り顔を逸らしたわたしに「どうしたんですか?」とますますつかさは接近してくる。
わたしの二の腕に彼女の胸元が当たり、首筋から彼女の体温が伝わってくるほどだ。
「……先輩」
それまでとは違い思い詰めたような口調だった。
ハッとして振り向くと真剣な表情のつかさが目の前に迫っていた。
ムチャクチャ近い!
しかし、その黒い瞳に捉えられ、わたしは身動きができない。
「あたし……」
なんとなく嫌な予感がして、耳を塞ぎたくなる。
この流れで「先輩のことが好きです」なんて言ってもらえたら最高だが、そんな未来を確信できるような自信は自分にはない。
「もっと勉強頑張ります。文芸部を辞めなくて済むように……」
「えっ、あっ、うん」
鼻と鼻が触れ合う距離で言葉を交わす。
つかさのことを思えば、予備校に行った方が良いと背中を押すべきだろう。
それなのに言葉が出て来ない。
「勉強にはモチベーションが必要なんです。先輩とこうしていられる時間があたしにとって最高のモチベーションになるんです!」
これって愛の告白?
このまま抱き締めていい?
そんな疑問が飛び交い硬直してしまったわたしを尻目に、つかさは乗り出していた身体をスッと戻した。
心の中で、あああああーーーーーという魂の叫びが響く。
追いすがりたいが、もちろんそんなことはできない。
彼女は「試験勉強頑張ります」と言って、そそくさと帰り支度を始めた。
わたしは「数学以外、いや、理系以外なら教えられると思うから、よかったら聞いてね」と早口で告げた。
保健の授業なら手取り足取り実技を教えてあげられるのに。
わたしだって経験はないけど。
そもそも中間試験に保健の科目は入っていないか……。
がっくり項垂れたわたしだったが、「待って、一緒に帰ろう」と気持ちを切り換える。
いまは、この幸せな時間が続いて欲しい。
それだけがわたしの願いなのだから……。
††††† 登場人物紹介 †††††
湯崎あみ・・・臨玲高校3年生。文芸部部長。お嬢様学校の臨玲の中でも上位に位置する裕福な家庭で育った。しかし、社交は苦手。理系科目も苦手。
新城つかさ・・・臨玲高校2年生。文芸部。十分に裕福な家庭育ちだが臨玲の中では平均くらい。読書家。大学は国公立も視野に入れている。
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