第34話 令和3年5月9日(日)「母と娘」日野陽子

 娘は女子高という新しい環境でも上手くやっているようだ。

 中学3年生――15歳で自立するというのは世間的に見れば早い方だろう。

 母親としての責任放棄だと非難されても仕方がないことだ。

 それを承知の上で、昨年の3月から私と娘の可恋は離れて暮らすことを選択した。


 私は大学教授として学問を学生に教える仕事をしている。

 1回目の緊急事態宣言以降オンライン授業が主流になったことで、私が大学内で感染するリスクは減少した。

 しかし、研究者として実際に人と会う機会は減っていない。

 私が取り組んでいる分野は女性問題だが、現場の声を聞き当事者の思いを語ってもらうことを基盤にしている。

 苦しんでいる人たちはその苦しみを言葉にするのが難しい。

 言語化するというのは問題を可視化するだけでなく、今後の道筋を照らす働きもする。

 息づかい、視線、仕草、雰囲気といった非言語のコミュニケーションは同じ空間にいないと伝わらない面が大きいし、服装や生活環境を知ることはその人の本質をつかむ有力な材料となる。

 そうやって集めた事柄から社会のあり方を問い直すことが私のライフワークだ。

 このほかNPOの支援や行政との調整等、この激動の1年でやるべき仕事は格段に増えた。

 もちろん感染症対策は行っている。

 だが、万全とは言い難い。

 それに多忙すぎていちいち神奈川まで帰る時間が惜しかった。

 結局大学近くに部屋を借り、新たな拠点とすることにした。


 娘の可恋は図体は私より大きくなった。

 親が揃って大学教授だからか勉強もできる。

 精神面は親として見れば心もとない部分もあるが、陽稲ちゃんが側にいてカバーしてくれている。

 健康面は不安だが、それこそ私と同居する方が危険性は高い――私が仕事を辞めれば別だが……。


 私は娘より仕事を取った。

 娘の後押しがあったとしても、その重い十字架はずっと背負い続けることになる。


『プレゼント、届いたわ。ありがとうね、可恋』


 普段は電話だけのやり取りだが、今日はビデオチャットを利用する。

 画面の中の娘は1年前からあまり変わっていないように見えた。


『最近食事の記録をサボっているじゃない。運動もしてないんでしょ? 忙しいからって無茶はダメだから、キチンと休んでね』


 開口一番これだ。

 どちらが保護者だか分からない。


『大丈夫。食事には気をつけているから』と私が笑顔で答えても、彼女はムスッとした顔のままだ。


 この子は生まれつき免疫系に障害を持ち、地獄のような幼少期を過ごした。

 大人でも耐えられないような経験を10歳までのうちに何度も何度も積んできた。

 友だちと遊べない。

 周りが普通にできることができない。

 どんな予定も少し体調を崩すとキャンセルされるし、諦めてばかりの生活だったと思う。

 死を意識したことも一度や二度ではない。

 本人は医師から二十歳まで生きられないと言われたことを気にしているが、彼女の周囲にいたほとんどの大人はその言葉ですら希望的観測だと思っていたのだ。


 最後は本人の生きる意志の力が勝ったのだろう。

 10歳頃から徐々に体力がつき、寝込むことが減っていった。

 少しずつ学校にも行けるようになり、できることは増えていった。

 当然蔭で努力をしていたのだろうが、本人はそれを口にはしない。


 それからは生き急ぐように様々な知識を身につけ、何でも人並み以上にやってのける子どもになった。

 いまや学力は大学生以上、運動能力も空手の大会で優勝を狙えるレベルらしい。

 健康やトレーニングについては専門書を読みあさり、専門家顔負けになったと聞く。

 いまも彼女はさも当然という顔で厳しい節制を続けている。

 ただ、それを私にまで押しつけてくるとはた迷惑だと言いたくもなる。


『母の日なんだから小言はなしで』と言うと、『そんなに忙しいなら秘書でも雇ったら?』と提案された。


『研究は院生が手伝ってくれるから』


『いや、私生活の方を……』と可恋は渋い顔をする。


 彼女のことだ。

 秘書という名の見張り役を私の側につけたいと考えているのだろう。

 健康を気遣ってのことだと分かっていても、『ストレスが健康のいちばんの敵だから、それを増やさない方向でよろしく』とやんわり拒絶する。


『ストレスにならない人だったら良い訳だね。探しておくよ』


『ちゃんと会って私がOKしないと雇わないからね。いまは面接する時間もないのだけど』と予防線を張るが、可恋は自信ありげな顔をしていた。


『世話の焼き方がお祖母ちゃんに似てきたわね』


 以前の可恋なら嫌な顔をしたはずだ。

 だが、『これは祖母の影響じゃなくてひぃなの影響だから問題ないよ』と澄ました顔で彼女は言ってのけた。


『陽稲ちゃんは元気?』と私は話題を逸らす。


『うん。昨日から母親に会いに行っているよ』


 私は陽稲ちゃんの母である実花子さんの顔を思い浮かべた。

 同じ人の親として彼女を尊敬している。

 私が可恋と離れて暮らすと決めた時、彼女は自分の愛娘が可恋と一緒に暮らすことを許したのだ。

 実花子さんは神様に与えられた特別の才能を持った子だからと陽稲ちゃんを評していた。

 かといって手塩に掛けて育てた娘をまだ中学生のうちに家から出すことは勇気が必要だったはずだ。

 私は親としては劣等生だと自覚している。

 そんな私ではなく彼女が重い病に倒れたと聞いた時は信じていない神様を呪いたくなったものだ。


『それじゃあ可恋は寂しいのね。今日くらいは甘えていいわよ』


 可恋は醒めた目で『夜にはひぃなが帰ってくるから必要ない』と言い切ると、『それより祖母に連絡はしたの? 大阪はいま大変みたいなのに』と言葉を続けた。

 私は頬をポリポリ指で掻いて、『連絡がないのは元気の証でしょ』と言い訳をする。


 自分の母とは可恋のことで連絡を取り合うことはあるものの、それ以外では相互不干渉というのが現状だ。

 過去に散々迷惑を掛けたことは自覚している。

 特に可恋が幼い頃は母の支えがなければどうなっていたか分からない。


 母はほぼ女手ひとつで私を育てたが、私は母の反対を押し切ることばかりしていた。

 学問の道に進んだことは理解してもらえなかった。

 結婚を勝手に決めて怒られ、長続きしないと言われ反発したが結果はその通りになった。

 病弱な娘がいるのに仕事を再開したと責められ、人でなしと罵られたこともある。

 母の持つ道徳観や常識といったものを突き崩したくて学者になったとも言えるだろう。

 私は学問の成果を母にも理解してもらえるように分かりやすく伝える努力を積み重ねてきた。

 それが多くの人に支持されることに繋がった。

 まあ、まだまだ母が理解する日は遠そうなのだが……。


 互いにどうしても譲れない価値観の相違があって相手のことを認められない状況が続いている。

 自分でも大人げないと分かっている。

 おそらく血の繋がった肉親だから甘えのようなものがあるのだろう。


『ちゃんと連絡するように』と仏頂面で告げた可恋は思いついたように『しないなら、祖母を秘書として雇おうか』ととんでもないことを言い出した。


『何、言っているの。あの人が引き受ける訳ないじゃない』


『私のたっての願いって言えば聞いてくれるかも』と可恋はニヤニヤ笑っている。


 変に行動力がある母のことだ。

 嫌がらせをするために東京にやって来ないとも限らない。


『連絡するから!』と私は叫ぶ。


 この画面の解析度では分からないが、可恋の瞳は深い色合いを帯びていると思う。

 彼女は人の命がいつ果てるか分からないと誰よりも知っている。

 まして、いまは非常時だ。

 大人げない意地の張り合いよりも大切なことを娘に教えられ、私は『ちゃんと連絡するから』と同じ言葉を繰り返した。




††††† 登場人物紹介 †††††


日野陽子・・・某超有名私立大学教授。平成31年4月より関西の大学から移った。アカデミー外にも非常に名前が知られている。


日野可恋・・・臨玲高校1年生。陽子の実娘。NPO法人の共同代表を務めているが世間的には親の七光りだと思われている。


日野富江・・・陽子の母。現在大阪で独り暮らし。ひとり娘の陽子は可恋の出産とほぼ同じタイミングで離婚したためふたりを引き取って面倒を見ていた。娘と孫からはデリカシーに欠けるとよく言われる。


日々木陽稲・・・臨玲高校1年生。可恋と同居中。ロシア系の血を引く美少女で、激しく目立つ存在。


日々木実花子・・・陽稲の母。横浜にある百貨店の社員。営業力や育成力を高く評価され、昨年末に倒れたあとも退社しないよう引き留められた。普通とはかなり異なる次女をどう育てるか頭を悩ませていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る