第33話 令和3年5月8日(土)「女子高生を拾う。そして用を足す。」
意識が覚醒するのが先か、ガーンガーンガーンと頭の中に鳴り響くのが先か。
気がつけば、激しい痛みによって身じろぎできない最悪の状況だった。
脳天が割れるように痛い。
この地獄の責め苦に後悔の念が湧き上がる。
夕べは仕事帰りに飲みに行った。
飲まずにはいられない気分だった。
開いている店は少なく、何軒も回ってやっと見つけた居酒屋で浴びるように酒を飲んだ。
店に入って以降の記憶はほとんど残っていない。
痛みを堪えてうっすら目を開ける。
薄明かりすら二日酔いを悪化させてしまいそうだ。
見覚えのある天井だった。
無事に家までたどり着いたようだ。
ホテルに連れ込まれても仕方がないと思ってしまうほど昨夜は自暴自棄に陥っていた。
……まあ、私を誘う男なんているはずがないよね。
目をギュッと閉じて押し寄せて来た頭痛と自己嫌悪の波をやり過ごす。
微かに呻き声を上げながら、私は手近にあったものに抱きついた。
なんだか懐かしい感じがする温もり。
それが何か確かめることなく、私は再び眠りに落ちた。
次に私を目覚めさせたのは強烈な尿意だった。
眠気どころか耐えがたい頭痛さえ吹っ飛ぶほどの緊急事態だ。
なけなしの理性の力で、私は這うようにベッドから出る。
さすがにこの歳になってここで漏らす訳にはいかない。
独居用の狭い部屋なのにトイレまでが遠く感じてしまう。
ヤバい、ヤバい、ヤバい。
いまの服装は着慣れたビジネススーツのままだった。
私はトイレに向かいつつタイトスカートを脱ぎ捨てる。
トイレに入りドアを閉める手間を惜しんでショーツを下げ便座にお尻を落とす。
便座の冷たさを感じるよりも早く堰を切ったように排泄が始まった。
ホッと息をつく。
安心すると頭痛がぶり返してきたが、先ほどよりは少しマシになったようだ。
かなり大きな音がこれでもかというくらい長く続いた。
他人に気兼ねしなくていいのは独り暮らしの良いところだが、そのせいか恥じらいといったものが希薄になった気がする。
それはいま心配することじゃないと思い直し、トイレットペーパーを取ろうとした。
……あ。
ない。
そういえば買い置きが切れて、新しいものを買わなければならなかった。
すっかり忘れていた。
「紙がない」と絶望に満ちた声が出る。
声に出すことで働かない頭を何とかしようという思いだったのか。
歳を取ると分かり切ったことでもいちいち言葉にする人っているよね。
私もそういう手合いに近づいたのかもしれない。
「これでいい?」
なぜか目の前に女子高生が立っていた。
彼女はティッシュの箱を手に持ち、私を見下ろしている。
人間、驚くと本当に頭の中が真っ白になるものだとよく分かった。
あられもない姿を見られているのに声は出せず、隠すことも思いつかなかった。
ただその少女の顔を見上げるだけだ。
女子高生だと分かったのはワンピースのセーラー服を着ていたからだ。
私はここ神奈川が地元なので、それは比較的見慣れた制服だった。
彼女は女子高生というには垢抜けていない印象ではあったが、その少し野暮ったい制服は似合っていた。
絶句したままの私に、少女はティッシュの箱をそっと差し出す。
黙って機械的に受け取る。
彼女がトイレのドアを閉めてようやく、この意味不明の状況について考えるという行為をすることができるようになった。
……誰? 誰なの?
見たこともない顔だ。
あの高校に知り合いなんていない。
なぜここにいるのか。
どうやってここに入れたのか……は、どう考えても私が連れて来たのだろう。
昨日の出来事を思い出そうとするが、まったく出て来ない。
ここまで記憶をなくしたのは初めてだろう。
一部の欠落というより、すっぽり丸々消し飛んだようだ。
相当酔っ払っていたのは確かだが、とはいえ未成年の女の子を部屋に連れ込んでいい訳がない。
私は座ったまま頭を抱える。
どうしたらいいのだろう。
下手をしたら誘拐犯だ。
私が男だったら確実にお縄についていたに違いない。
しかし、思考は長続きしない。
頭の痛みに加えて喉の渇きが我慢できなくなってきた。
ここにいても埒が明かない。
ティッシュで拭き、サニタリーボックスに捨てる。
ショーツを穿き、ドアを半分ほど開けて頭を出す。
「ごめん、そこのスカートを取って」
トイレから出て水道水をがぶがぶと飲み干した。
ひと心地がついてから床に置かれたものを手早く片づける。
最近、部屋の中は散らかり放題だった。
座るスペースもないくらいに。
なんとか場所を確保してから、私はベッドに腰掛けていた女子高生を小さなテーブルの向かい側に座らせた。
「ごめん、昨夜の記憶がないの」と私は正直に告げる。
あまり感情を表に出すタイプではないようだが、さすがに驚いていた。
経験がないと驚くよね。
「あなたのことも、ここに連れて来た経緯も、全然覚えていないの。良かったら教えてくれるかな?」
落ち度は私にあるので、できる限り柔和な印象を与えるように話す。
昨夜のうちに本性を見られているだろうから既に遅い気もするが。
「家出したわたしを拾ってくれたんです」
「ああ……、やっぱりね」
そんな予想はしていた。
というかほかに考えられるシナリオなんてないだろう。
昔助けた鶴が女子高生に化けて恩返しに来てくれたなんてありえないし、そもそも鶴を助けたことがない。
彼女の話を聞くと、家出をして深夜の公園で途方に暮れていたところに私が現れてここに強引に連れて来たらしい。
私は両手をこめかみに当てる。
まだズキズキという痛みは残っている。
二日酔いのたびにもう飲まないと誓うのだが、果たせた例しがない。
今回はさらに大きな問題と遭遇した。
次こそはと思いながら口を開いた。
「責任持って送って行くからお家に帰りましょう」
「嫌です」
間髪入れずに彼女は答えた。
……だよね。
不良少女って感じでもないし、相当思い詰めて家出をしたはずだ。
簡単に引き下がれないという気持ちは分からなくもない。
「分かった」と私が言うと、あまりにもあっさり認めたことに彼女は目を瞠っていた。
「事情も聞かない」と私は言葉を続ける。
「その代わり、私の話を聞いて欲しい」
「話、ですか?」と制服の少女は首を傾ける。
私が頷くと、彼女も頷いた。
テーブルの上に置いてあった水道水に口をつけてから話し始める。
「……あのね、3年くらいつき合っていた彼につい最近捨てられたの」
私は心の中に溜め込んでいたものをこの際だからとすべて吐き出した。
名前も知らない相手だからかえって話しやすかったのだろう。
「結婚を前提にしたつき合いだった。年齢的にちょうど良いタイミングだと思ったし」
ギリギリ20代のうちに結婚できるだろうと踏んでいた。
相手は少し歳上のサラリーマンで、私にはもったいないくらいの人だった。
「私に悪いところがあったのも事実よ。外では気が利く女って感じでやっていたけど、地は見ての通り自堕落なところもあるし……」
家庭的なところが好きと言われたが、つき合ううちに私の本質がバレたのかもしれない。
でも、だからってこんなに長くつき合っていて突然ポイはないだろう。
私は今年で30の大台に乗る。
いまからだと良い相手を見つけるのは難しい。
ほかの人たちが婚活に焦り始めるのを高みの見物と眺めていたのに、まさか私が同じ立場に落ちてしまうとは思ってもみなかった。
「もうこの歳になるときれい事を言っていられないのよ」
男の注目を集めるのはいつの世も若い娘だ。
私はこれまで若さというボーナスのお蔭でチヤホヤされていた。
それがどんどんと失われていくことに気づいてから、早く結婚しようと彼に迫るようになった。
「だってしょうがないじゃない。子どもも欲しいし、高齢出産は避けたいし。人生設計をして何が悪いのよ!」
あ、ダメだ。
無性にヤケ酒が飲みたくなる。
迎え酒は良くないと分かっていても我慢できない。
冷蔵庫にまだ缶ビールがあったはずだ。
腰を浮かし欠けた私を思いとどまらせたのは目の前の少女の蔑んだ視線だった。
彼女は「……不潔です」と絞り出すように声を出した。
当然、反論したい気持ちが湧いてくる。
愛だの恋だの言っていられるのは学生のうちだけで、社会人になると様々な打算が必要になる。
何より結婚は愛だけではやっていけない。
余程の玉の輿でもない限り、共働きを続けながら子どもの教育費や老後の資金を蓄えていかなければならないのだ。
彼女の潔癖さは小娘の戯言だ。
だが、私もかつては小娘だった。
「大人にもいろいろあるの。でも、あなたにもいろいろあるのでしょ? だから、家出なんかしでかした。だったら、その理由をちゃんと親に言いなさい。伝えなきゃ分からないのよ」
少女は泣きそうな顔になっている。
最初に見た時よりも幼く感じる。
必死に大人びた姿を見せようとしていたが、いまは精神的に張り詰めていたものが切れた感じだ。
私の長話につき合って、少しは思うところがあったのだろう。
教育上よろしくない話だったような気もするけど。
結局アルコールは摂取せずに、キチンと着替えて彼女を自宅まで送り届けた。
そこはかなりの豪邸で私はペコペコと謝り続けたが、その家の住人は娘を心配し私に何度も礼を言う普通の人たちだった。
良い親御さんだと思ったが、それでも反抗してしまうのが思春期ってやつだろう。
帰り際に少女から連絡先の交換を申し込まれた。
年齢が半分ほどの女子高生相手に何を話したらいいかよく分からないが、私はその申し出を受け入れた。
彼女からしたら私なんて「おばさん」だろう。
若い娘と接することで自分の若さを保てるといいなという下心もあるが、これも何かの縁だから。
「胸の内に溜まったものを吐き出せばスッキリすることもあるよ。私みたいにね」とアドバイスをして私は帰途についた。
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