第31話 令和3年5月6日(木)「常識」湯川湊
1年生の教室近くは初瀬紫苑をひと目見ようと集まった上級生たちによって密集ができていた。
この春わが校に入学した国民的カリスマ女優。
これまでも体育や移動教室等で彼女が校内を歩いている姿を見掛けることはあった。
だが、1年生の教室周辺は上級生立ち入り禁止となっていて、確実にこのスターを目撃することは叶わなかった。
その制限がゴールデンウィーク明けの今日から解禁された。
お嬢様学校にしてははしたない感じもするが、集団心理が働くのか話題に乗り遅れないように見に来た生徒が多いようだ。
そんな混雑の中で私は別の1年生に会おうとしていた。
「こりゃ無理だな」と早々に諦めの言葉を吐いたのは
私が1年生の教室に行くと言ったら面白がってついて来たものの、目当ての教室前の人混みを見て顔をしかめている。
数日もすればこの状況は改善されるだろうが、それでは遅い。
なんとしてでも今日か明日には連絡しておく必要があった。
「……どうしようか」
廊下は満員電車並の人の壁だ。
教室の入口辺りがどうなっているかさえここからでは分からない。
足の踏み場もない状態なので、別の用事だからと言って道を空けてもらうのも難しそうだ。
「茶道部だ! 道を空けろ!」と暁が叫んだが、その言葉はざわめきの中にかき消えた。
肩をすくめた暁は「出直そうぜ」と私の耳元で大声を出した。
結局私はトボトボと自分の教室に戻ることしかできなかった。
次の休み時間、私は暁とゆかりのクラスに向かった。
何か良い知恵がないかと頼ることにしたのだ。
新しく生徒会長になる1年生を茶会に招きたいと言い出したのは彼女だし、何か私たちの知らない情報を持っているかもしれない。
「そう言えば、お昼は新館に行くことが多いと聞いています」
事情を話すと、ゆかりはピンと背筋を伸ばしたまま私たちを見上げてそう教えてくれた。
私が「新館?」と問い返すと、「
そういえば新しい建物ができていた。
通用門や教室からは遠く、私はあちらの方に足を伸ばす機会が滅多にない。
倉庫という噂もあったし学校からのアナウンスもなかったので、生徒が関わる施設だと知らなかった。
「レストランが入っているそうです。ただ現在のところ使用できる生徒がごく一部に限られているようです」
「マジか」と暁が興味を示した。
彼女は新しもの好きだし、鎌倉市内のめぼしい飲食店を制覇したと言うくらい食べ歩きを趣味としている。
通学も自転車を利用していて、いまも生まれ育ったこの街を駆け巡っているそうだ。
「一部の生徒だけってありなのか?」と暁が疑問を呈すと、「まだ正式にはオープンしていないという建前のようですね」とゆかりが事情通振りを発揮した。
彼女は祖母が学園の理事を務めているので、私たちよりこの学校のことについて詳しい。
それをひけらかすことはないが、必要な時にはこうして教えてくれる。
「入る前に行って待ち伏せするか、張り込んで出るところを捕まえるか……。まあ待ち伏せ一択だな。中に入れてもらえるかもしれねーし」と暁は皮算用する。
「でも、待ち伏せするのは無理じゃない?」という私の言葉に「ゲッ、4限目は体育じゃねえか」と暁ははしたない声を上げる。
目当ての1年生の授業が何かは分からないが、体育の授業のあとでは先回りすることは難しいだろう。
暁は「着替えは後回しでいいか」と言い出したが、茶道部として茶会に参加してもらうお願いに行くのだ。
1年生相手とはいえ失礼があってはないらない。
「出て来るところを待てばいいんじゃない?」と私が言っても、「ゼッテー中に入りたい」とその気になった暁は譲らない。
こうなると彼女はてこでも動かない。
埒が明きそうにないので再びゆかりに助け船を求める視線を送る。
「明日でも良いのでは?」とゆかりは平然と構えていた。
しかし、私はゆかりが事の重大さを認識できていないように感じる。
普通の高校生が着物の着用が義務付けられた正式な茶会に招かれることはそうはないだろう。
次期生徒会長として、臨玲高校の中でも目の肥えた人たちの面前でお手前を披露する。
余程の嗜みがなければ、どれほど時間があっても準備が必要なはずだ。
「芳場さんの時は、見ている方が居たたまれない気持ちになったから……」
当時はまだ官房長官の娘だった芳場さんは初めて招かれた茶会にド派手な着物姿で現れた。
自信満々の顔つきだったが、その所作は決して褒められたものではなかった。
表立って指摘する人はいなかったものの、蔭では散々な言われようだった。
「アレはひどかったな」と暁は苦笑している。
「私は当時初心者だったから、余計にグサッと来たの」
「湊は上達しようと努力を重ねてきました。だから周囲も温かい目で見ていたのです」とゆかりはフォローしてくれるが、ほかの人が失敗する姿を見たくないという私の気持ちは変わらない。
茶道部の権力を使えば学校の職員から個人情報を聞き出すことは可能だろうが、できればそれもしたくはない。
だから、今日明日中には面会を果たしたい。
明日の昼休みに彼女が100%新館に行くと決まっている訳ではない以上、接触の機会は逃したくなかった。
「そこまで湊が言うのなら仕方ねーな」と暁が折れてくれたように見えた。
私はホッと息を吐く。
だが、彼女はあろうことか「体育、サボるか」と言葉を続ける。
私は手で頭を押さえ「どうしてそういう発想になるの?」と問い質す。
暁はあっけらかんと「論理的帰結だろ?」と答えた。
「先生にふたりが10分ほど早く終わるよう話を通しておきましょう」
「ゆかりまで……」と私は呆れた顔になるが、暁は「ゆかり、よろしく!」とすっかりその気になってしまった。
私はこれ以上抵抗することを諦める。
これがこの高校の常識ってヤツだから。
††††† 登場人物紹介 †††††
湯川
榎本
吉田ゆかり・・・臨玲高校3年生。茶道部部長。かなりの資産家の娘。茶道部は入部にも家柄が重視される。
初瀬紫苑・・・臨玲高校1年生。ごくたまにするファンサービスが人の心をつかむタイプ。
芳場美優希・・・臨玲高校3年生。生徒会長。間もなく任期が切れる。父親は現職の総理大臣。
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