第29話 令和3年5月4日(火)「夜景」梶本恵美

 カリフォルニアは夕闇に包まれていた。

 その光景を見ながら、私は日本にいる妹に電話を掛ける。


『お姉ちゃん』


『久しぶり、ふみ


 アメリカに留学を決めた時、いちばんの心残りは妹の存在だった。

 姉バカとよく言われたが、歳の離れた妹はとても可愛い。

 目に入れても痛くないほどだ。

 いまももっと頻繁に、毎日のように連絡を取りたい。

 しかし、それをすると嫌われるんじゃないか。

 彼女から「ウザい」なんて言われた日にはゴールデンゲートブリッジから飛び降りたくなってしまう。

 そこで月に一度というルールを自分に課していた。


『どう? 高校には慣れた?』


 妹の史はこの春から高校生となった。

 私と同じ中高一貫の私立に通っていたが、彼女は外部受験をして臨玲高校に進んだ。

 詳しい事情は聞いていない。

 私が側にいれば相談に乗れたのにと思った事もあるが、帰国が叶わないままに時間が過ぎ去ってしまった。


『そうだね』と史が答えたあと、微妙な間が生じる。


 それを埋めるように彼女は『そういえば……』と言葉を続けた。

 私も日本にいた頃はこういった沈黙を恐れていた。

 中高生時代のあの独特の空気から逃れられただけでもアメリカに来た甲斐があった。


『初瀬紫苑とクラスメイトになったよ。……って言ってもお姉ちゃんは知らないか』


『はつせしおん? 聞いたこと、あるようなないような……』と首を傾げていると、『いま日本で人気の女優』と史が教えてくれた。


 私がこちらに来て3年ほどが経つ。

 インターネット等で日本の情報は得ているが、芸能ネタまでチェックする時間がない。

 昔は話題についていくため必死で追い掛けていたのに。


『へえー、凄い美人なんだろうね』


『そうだね』


『きっと史の方が可愛いと思うけど』と私が冗談めかすと、『……』と何か言いたそうな気配だけが返って来た。


 私は気まずさを振り払うように明るい声で『えっと』と言ったが後が続かない。

 電話を掛ける前は話したいことがたくさんあると思っていた。

 それなのに、いまは何を話していいかパッと頭に浮かばない。

 友だちのことや両親のことといった人間関係は触れない方がいいだろう。

 勉強のことを聞けば小うるさく感じるんじゃないか。

 政治や経済の話を妹相手にする訳にもいかず、仕方なく自分の近況を話すことにした。


『こっちはかなり普通の生活に戻って来たよ』


『そうなんだ』


『私は課題に追われて勉強勉強で、あんまり実感できないんだけどね』


 そう笑いながら話したが、実際はかなりの変化を肌で感じていた。

 ロックダウンがあった頃は絶望しかなかった。

 このまま異国の地で何も成し遂げることなく命を絶えてしまうのではないかと思うほどに。

 自由が厳しく制限され、孤独で、心細かった。

 その後、波はあったものの徐々に明るい兆しが見え始め、最近は人々の顔にも笑顔が増えた。

 長かったトンネルを抜け、ようやく青空が見えてきたところだ。

 近いうちに元の日常が帰ってくる。

 そんな希望がウィルス以上の速さで人々の間に伝染しているような気がする。


 ただ、それを史に言っていいかは分からなかった。

 ニュースを見る限り、日本の状況は良くないようだ。

 日本にいてはアメリカの空気が分からないように、私にはいまの日本の状況がよく分からない。

 史の気持ちも電話だけで理解できているとは言い難い。


 気が滅入るからニュースは見ないと言った史は、学校の中は特に変わった様子はないと教えてくれた。

 クラスメイトに感染者が出てもパニック等は起きていないらしい。

 どちらかと言えば、高校生の多くはただの風邪だと軽視する傾向にあるそうだ。

 そんな状況に憂慮を覚えるが、かといって不安を煽って妹にストレスを与えてもいけない。


『たぶんもう少しの辛抱だと思うから、史、気をつけてね』


『うん。お姉ちゃんも』


『私はワクチン打ったから大丈夫だよ』


『そうなんだ』


 いつもの抑揚のない返事。

 いつからだろう、彼女がこんな風に感情を出さないようになったのは。

 元々おしなしい子ではあったが、ここまで酷くはなかった。

 私が留学の準備に忙しかった頃、史は中学受験の真っ只中だった。

 その時は勉強に集中しているんだろうと思っていたが、その直前くらいからこんな感じだったろうか。


 両親は教育熱心だし、私たち姉妹にお金を掛けてくれている。

 私の留学も許してくれた。

 ただ精神的に寄り添ってくれるタイプの人たちではなく、どこか冷たいところがあった。

 やるべきことはやってあげたからあとは自分でどうにかしなさい、みたいな。

 私にとっては親の干渉が少ないことはプラスに働いたと思う。

 しかし、史は……。

 姉妹といえど性格は違う。

 むしろ兄弟姉妹は異なる性格になりやすいという話を聞いたこともある。

 姉に上手くいった教育手法が妹にも上手くいくとは限らない。


『史も卒業したら、アメリカに来ない?』


 ずっと前から考えていた思いを初めて史に伝えた。

 私はドキドキしながら妹の返答を待つ。


『……無理だよ』


『そんなことはないよ! 環境が変われば、性格だって生き方だって変えられるはずだから』


 いまの史の性格ではアメリカ暮らしは向いていないだろう。

 自分ですべてを決め、自分ですべての責任を負うような生活は。

 だが、日本で暮らせば平穏に、幸せに暮らせるという保証だってないのだ。


『考えてみて。他人の顔色を見て、息を潜めて生きることを望むのか。それとも自分を変えて、自分がしたいことを目指すのか』


 私だって日本にいた頃は教室に充満する”空気”の中を泳いでいた。

 うまく泳げることを誇っていた時期もある。

 それがちっぽけな水槽の中に過ぎないと気づいた時、私はそこからできる限り遠ざかることを欲した。

 そして、たどり着いたのがアメリカだった。


 ここで生きるのは大変だ。

 親の援助があるから、なんとかやっていくことができている。

 この先はどうなるか分からない。

 それでも、ここに来て良かったと思う。

 私が私らしく生きることは日本では難しかった。

 頑張ればできないことではなかったかもしれないが、私は自分の選択を後悔していない。


 史の返事はない。

 私は繰り返す。


『考えてみて。時間はまだあるから』と。


 アパートからは対岸にあるサンフランシスコの夜景が少しだけ見ることができた。

 その灯りも日に日に以前のように戻りつつあるように感じる。

 ずっと黙っていた史が口を開いた。


『そういえば、クラスに白人っぽい美少女がいるの』


『うん』


『まるで作り物みたいな姿形なのに、とても生き生きとしているの』


『うん』


『彼女が言ったの。この世界には涙を流すほど美しいもの、ジッとしていられないほど楽しいこと、どれだけの言葉を尽くしても語り尽くせない素敵な思いがまだ出会っていないだけで必ず存在するって』


『あるよ』と私は断言する。


 いま見えているこの夜景だって、この1年の軌跡を思えばその美しさに心が震える。

 史がこうして自分のことを話してくれただけで、私は泣くのを堪えるほど嬉しい。

 世界にはたくさんの感動が隠されている。

 あとはそれを見つけることができるかどうかだ。


『そうだね、アメリカじゃなきゃ、それを見つけられないってことはないね。無理強いはしないよ』


『うん』と頷いた史は『ありがとう、お姉ちゃん』と言った。


 その声の響きに感情が籠められているように感じた。

 私は唇を噛み締める。

 努めて明るく声を振り絞る。


『また電話するよ。Have a good time!』




††††† 登場人物紹介 †††††


梶本恵美・・・サンフランシスコの対岸の大学に通う留学生。近隣にアジア系の留学生が多かったので、支え合ってロックダウン中の厳しい時期を乗り越えることができた。


梶本史・・・恵美の妹。臨玲高校1年生。


初瀬紫苑・・・臨玲高校1年生。令和元年12月に公開された映画でブレイクしたため恵美はよく知らなかった。


10分間で相手の心をつかむ愛の伝道師・・・臨玲高校1年生。ミス臨玲コンテストで初瀬紫苑に挑むために布教活動中。

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