第28話 令和3年5月3日(月)「モラトリアム」日々木華菜

「受験生ですから無理して来なくてもいいですよ」と可恋ちゃんは言ってくれるが、わたしは「料理を作らないと勉強に手がつかないから」と今日も彼女のマンションにやって来た。


 いまお母さんは自宅療養中だ。

 自分の部屋ではなく居間にいる時間が長い。

 わたしがキッチンにいると何かと話し掛けてくる。

 それが煩わしいとまでは言わないが、勉強のことや友だちのことなどあまり触れられたくない話題も出てしまう。


 その点、可恋ちゃんのマンションなら料理に専念できる。

 可恋ちゃんも、わたしの妹のヒナも、空気を読むことに長けているので余計な気を使わせない。

 逃げているだけかもしれないが、受験の重圧のないこの場所は貴重な環境だった。


 今日の夕食は鶏肉とトマトをふんだんに使ったラタトゥイユ風の煮込みと、シーフードのカルパッチョ、ニンニクを効かせたあっさり系パスタだ。

 イタリアンでまとめた献立をひとりひとりに見合った量にして盛り付けていく。

 朝食や昼食にふたりが何を食べたかも確認しているので、これで1日の栄養バランスはバッチリなはずだ。


 わたしもご相伴にあずかるが、食事中は至って静かだ。

 それぞれのペースで食べ終わり、一服しながら談笑するのが最近の流れだった。


「それにしても、ヒナも大変なんだね」とわたしが切り出すと、食べ終えたばかりのヒナが整った顔立ちをこちらに向ける。


「やっぱり実際に作るとなると大変だね。今回は多くの生徒に気に入ってもらおうと思っているから、もう頭がパンクしそうになるよ」


 ヒナは入学したばかりの臨玲高校の新しい制服作りに取り組んでいる。

 もともと彼女はファッションデザイナーになることを夢見ていて、小さな頃から努力を重ねてきた。

 自分の頭の中にあるイメージをスケッチとして形に表すことができるようになり、さらにそれを現実の服へと結び付けるノウハウを得た。


「料理も同じですね。ひとつひとつの素材を選び下拵えをしてから、ひとつの料理となるように調理します。当然予算や時間の制限があり、味や見た目などのバランスも求められます」とヒナの仕事を可恋ちゃんが料理に喩えた。


 これまでのヒナは、俗に言う「男の料理」みたいに予算度外視で1点ものを自分の好みに合わせて作ろうとしていた。

 趣味としてはそういうこだわりがあってもいい。

 しかし、仕事としてはそれだけではいけないということだろう。


「制服は毎日着るものだから、ご飯みたいに飽きのこないものじゃないといけないしね」とヒナは眉尻を下げた。


 デザインは固まっているそうだが、ちょっとした製法の違いだけでも出来上がったものの印象が異なるらしい。

 手間を掛ければ費用がかさみ、手を抜けば安っぽくなる。

 お嬢様学校らしさを残しつつ、ある程度抑えた価格で、いまの時代にふさわしいものを作りたい。

 そんな彼女の思いが言葉の端々から伝わって来た。


「臨玲の制服は時代遅れだってずっと言ってきたけど、こんなに苦労をして作り上げられたものだといまなら分かるよ」


「ひぃなの望みが高過ぎなだけじゃない? あとほんのちょっと妥協したら、ほぼイメージ通りのものが想定価格内で完成するのに」


「そこが大事なのよ、可恋」


 ヒナは可愛い顔を紅潮させて細部がいかに大切かを語り始めた。

 気持ちは分からなくもないが、まだお祝いの席の特別な料理を作っている感覚が残っているように見える。

 一方、可恋ちゃんは開発費用やデザイン料を価格に転嫁した場合のコスト上昇の観点から妥協の必要性を訴えかけていた。


 ……料理の試作と比べて開発費の桁の数が随分多いんだけど。


 彼女たちがしようとしているのは、制服を手作りしてこんなものを着てみたいというアピールではなく、利益まで考えた製品開発だ。

 ヒナは高校在学中に起業する予定だが、実質はもう起業していると言っていい。


「お姉ちゃんはどう思う?」と劣勢になったヒナがわたしに助けを求めた。


 助けてあげたいのはやまやまだが、スケールが大きすぎてわたしではどうしようもない。

 力なく肩をすくめ、苦笑いを浮かべることしかできない。


「華菜さんも経営を学んでみますか? 面白いですよ。将来自分の店を持ちたいのなら、是非」


 可恋ちゃんはそう勧めるが、わたしは受験勉強だけで手一杯だ。

 それに将来像についてはまだ曖昧なままだった。


 料理が好きで、それを生涯の仕事にしたいとは思っている。

 いまのところ栄養士を第一希望にしているが、気持ちはいまだに揺れ動いている。

 いま飲食店は厳しい状況に置かれている。

 修業目的でどこかのお店に入るよりも、大学や専門学校で学んだ方が良いだろう。

 その上で、つぶしが効きそうなのが栄養士だと思った。

 栄養管理の大切さは可恋ちゃんから教わったし、重病を患ったお母さんのためにそうした知識を使いたいという思いもあるが、社会に出るという決定を先送りしたいという打算も少なからずあった。


「3年生になって人が変わったようにゆえやハツミは勉強に向き合っているし、経済的理由で大学受験を諦めたアケミは資格を取るために頑張っている。わたしだけが真剣に打ち込めていないんじゃないかって感じているの」


 大学受験に失敗したら専門学校に行けばいいかくらいの甘い考えが抜けていない。

 それではいけないという声は頭の片隅からずっと聞こえてくる。

 それを誤魔化すために料理に没頭しようとしていたのだ。


「お姉ちゃんはちゃんと目標を持って、しっかり前へ進んでいるじゃない!」


 ヒナは一生懸命に励ましてくれる。

 それをありがたいと思いながらも、ヒナならそう言ってくれるはずだという計算が心のどこかにあった。


「華菜さんの料理の腕は十分お金を稼ぐことができるレベルですので、大学進学は無駄かもしれません」


 可恋ちゃんはわずかに目を細め、落ち着いた口調でわたしに告げた。

 調理を生業とするだけなら栄養士の資格は必須ではない。

 自分に必要な知識は独学で学べばいいし、料理に携わる仕事は多種多様なので時間を掛けて自分に合うものを探せばいいと彼女は言葉を続けた。


「どうしてもやりたい仕事が見つかって、その時に資格が必要になったら大学に入るという選択をすることも可能です」


 明確な目的があれば勉強にも身が入るだろう。

 人間必要になったらいくつになっても学ぶことはできると彼女は言った。


「ありがとう、可恋ちゃん」


 わたしは感謝の言葉を述べると、「きっと世の中の受験生の多くは、わたしみたいに悩みながら頑張っているんだろうなって気づいたよ」と肩の力を抜く。

 可恋ちゃんが語った内容はまさしく正論だろう。

 勉強は何歳になっても始めることはできる。

 お母さんもそれを示してくれた。


 だが、レールの上を突き進むことに慣れた一介の高校生が簡単に選択できる道ではない。

 周りの多くは明確な目的がなくても大学に進学する。

 就職を選ぶのは何らかの理由があってのことだ。


 料理の腕に自信があっても厨房での下積みに耐えられるかどうかは分からない。

 食べた人が喜ぶ料理を作りたいという欲はあるが、それだけで通用するのかどうかも未知のことだ。

 両親や可恋ちゃん、ヒナ、ゆえたちを見ていると、わたしはまだ一人前の大人だと胸を張ることはできそうにない。


 もう少し。

 もう少しだけ時間が欲しい。


 大学に行って、自分に何ができるのか、自分の職業として何か最適なのか、そういったものをしっかりと見極めたい。

 それはモラトリアムかもしれないが、普通の高校生から大人になるための”じっくり味を染み込ませる”4年間がわたしには必要なんだと思う。




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木華菜・・・高校3年生。陽稲の実姉。彼女の父方の祖父と同じく「ヒナ」と呼んでいる。料理好きで家庭的な女の子。


日々木陽稲・・・高校1年生。姉と外見がまったく異なり、ロシア系の容姿を持って生まれた。そのためどこに居ても注目を浴びる存在だった。


日野可恋・・・高校1年生。陽稲と同居中。料理の腕は確かだが上達を目指していないこともありレパートリーはそんなに多くはない。段取りを考え効率的に作るのは得意。


野上ゆえ・・・高校3年生。華菜の親友。人脈作りが趣味という女子高生。


久保初美・・・高校3年生。帰国子女。英語に苦手意識があったが、現在はそれを克服している。


矢野朱美・・・高校3年生。成績優秀だが、家庭の事情により大学進学を諦めることになった。

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