第24話 令和3年4月29日(木)「雨の鎌倉」
せっかくの休日なのに鎌倉は雨が降っている。
残念ながら友だちと遊びに行く約束はキャンセルとなった。
ひとりでいることが苦手なあたしは、代わりと言ってはなんだがお隣さんの部屋にお邪魔していた。
「いぶきはゴールデンウィークもずっとここにいるんだ」
市内にあるこの木造家屋はあたしが生まれるずっと前からここに建っている。
今日は昭和の日だけど、まさにその昭和という時代から。
古都鎌倉らしい風情はあるものの、雨の日は部屋の中までジメジメと湿気が入り込んで来るようでかなり鬱陶しい。
しかし、目の前にいる少女はこんな天気でも凛とした感じでベッドに腰掛けていた。
「うん。寮母さんも問題ないって言ってくれたし」
あたしは明日学校が終わるとすぐに自宅に帰る。
この寮にいる先輩たちは土曜日に帰るみたいだが、あたしは一足先にここを出ることにした。
初めて親元を離れて1ヶ月ほどが経つ。
実家が恋しくないと言えば嘘になる。
先輩たちから「そんなに早くママに甘えたいんだ」とからかわれたが、余計なお世話だ。
「ひとりだと寂しくない?」
あたしには絶対に無理だ。
寮母さんがいるとはいえ、ほとんどの時間をひとりで過ごすことになる。
2日と待たずに音を上げることは目に見えていた。
「大丈夫」
いぶきはあたしと同じ歳だと思えないくらい落ち着いた雰囲気がある。
彼女ならきっと平気なんだろう。
だが、彼女にはこの世界に執着せずいつ消え去っても構わないという気配があった。
なんて言えばいい?
世を捨てているような感覚?
中高生の中には「自分はほかと違うのよ」と気取った態度を取る人がいる。
斜に構えるのが格好いいと勘違いしたり、陽キャをあからさまに僻んだりして、なんだかなと思ってしまう。
いぶきも最初はそんなタイプかと思った。
寮のほかの人たちと関わろうとしなかったから。
しかし、話してみると印象が変わった。
普通にコミュニケーションを取ることができる。
ちょっとネガティブなところはあるものの、つき合いにくいと思うほど酷くはない。
あまりポジティブ過ぎても引いちゃうから、あたしとしてはちょうど良い感じの寮仲間だった。
「お土産買って帰るからね! 何か好きなものとかある?」
「甘いものだったらだいたい好きだよ」と彼女は微笑んだ。
こんな受け答えひとつ取っても、あたしの目には好ましく映った。
何でも良いではなく、サラリと気の利いた答えが返ってくる。
学校の友人たちとは少し毛色が違う。
お嬢様学校として知られる臨玲の生徒だからなのか、臨玲でも彼女は独特なのかは分からない。
ただ、もっと彼女のことを知りたいという気持ちが徐々に膨らんでいた。
「臨玲はどう?」
とはいえ彼女は自分のことをあまり話したがらない。
共通の話題も少ないので、彼女の学校のことを尋ねてばかりだ。
いぶきはいつものように「普通だよ」と答えたが、まだ何か言いたそうにしている。
あたしはすかさず「何かあったの?」と身を乗り出した。
彼女はしばらく言い淀んでいたが、あたしの目を見て「昨日、とんでもない美少女に声を掛けられたの」と口を開いた。
「初瀬紫苑じゃなくて?」
あの人気女優の初瀬紫苑がクラスメイトだと聞いて驚いたのは半月ほど前だったか。
臨玲に初瀬紫苑が入学したという話題はうちの学校でも持ちきりになっている。
同じ鎌倉の女子高に通っていることで親しみのようなものを感じるのはあたしだけではないと思う。
ちなみに知れ渡ったきっかけはたぶんあたしだろう。
校内のあちこちで吹聴して回ったから。
だって、同じ寮内の友だちが初瀬紫苑のクラスメイトだなんて黙っていられるはずがない。
「彼女とは別。外国人のような肌や髪の持ち主で、神懸かったような美形なの。高校生に見えないくらい幼い感じだけどね」
「えー、すごい!」
素直に一度見てみたいと思ったが、いぶきが言うにはその美少女の素晴らしさは外見だけではないそうだ。
ほんのり顔を赤らめて、いぶきは「とても癒やされる気持ちになったの。あんなの初めて」と興奮気味に話した。
初瀬紫苑のことを語る時はもっと冷めた感じなのに。
あたしは「へー」と相づちを打つ。
なんだかおもしろくない気分だった。
誰に対しても――あたしに対しても――一定の距離を取り続ける彼女がこんな風になるなんて。
もちろん、そんな感情を顔や態度に出さないように気をつける。
いぶきはただの友だちなのだから……。
「そんなに深い話をした訳じゃないのに、話し終えるととても心が軽くなって……。なんだったんだろう」
いぶきは自分の考えに目が向いていて、あたしの様子には気づかなかったようだ。
ホッとしつつも、もっとこちらを気にして欲しいという思いが湧いてくる。
「やっぱり臨玲って凄いんだね」というあたしの言葉にはわずかながら棘があった。
これまで普通だと繰り返していた彼女に対する皮肉のような。
いぶきは目を瞬くと、戸惑った表情で「そうかもしれないね。何人かだけど、凄い人がいるし……」と呟いた。
……違う。
あたしはいぶきにこんな顔をして欲しかった訳じゃない。
いつものあたしだったら「凄い人って?」と明るい声を出して話に食いついただろう。
そうすれば、このほんの少し気まずくなった空気は消え去るはずだ。
分かっているのに、顔面が凍りついたように固まってしまっている。
あたしは両手で顔を覆う。
突然、本当に突然、もの凄く悲しくなってきた。
こんなことはこれまでなかったのに。
手のひらに目からこぼれ落ちたものが触れた。
「どうしたの? 大丈夫?」
いぶきがいままで見せたことのないような驚きの声を上げた。
きっと彼女はあたしのことを面倒くさいやつだと思っただろう。
ひとりで苛立って、ひとりで泣き出して……。
あたしはしゃくり上げながら「ごめん」と謝った。
これ以上迷惑を掛けられない。
立ち上がって、自分の部屋に戻ろうとする。
「待って」
いぶきも立ち上がった。
あたしの心は逃げ出したい気持ちと引き留めて欲しい気持ちで揺れていた。
恐る恐るという感じでいぶきがあたしの肩に手を置いた。
あたしは咄嗟に彼女の胸に飛び込む。
そこに顔をうずめ、泣き声を上げる。
何も考えられなかった。
自分の胸の中に渦巻く訳の分からない感情を涙で吐き出すことしかできない。
かなりの時間立ち尽くしていたと思う。
いぶきは黙ってあたしの涙が止まるまでつき合ってくれた。
泣き止んでも顔は上げられない。
いまだに自分でもなぜこんなことになったのか分からなかった。
しかし、いつまでもこうしてはいられない。
あたしはなけなしの勇気を振り絞り、俯いたまま「本当にごめん」と言って身体を離した。
その時になってようやく彼女の温もりに包まれていたことに気づく。
部屋の中の空気の冷たさと、この温もりを失ってしまうことにあたしは恐れおののいた。
気持ちとは裏腹にもう一歩後ろに下がった。
さらにもう一歩。
顔を上げることはできない。
彼女がどんな顔をしているのか見るのが怖かった。
やがて背後は行き止まりになった。
そう広くない部屋だ。
あたしは頭を下げたままドアの位置を確認する。
またこの部屋に入る日が来るだろうか。
またいぶきと笑って話ができるだろうか。
不安を抱きながらあたしはドアに向かう。
「……瑠菜」
彼女に名前を呼ばれた。
その声の響きが優しく聞こえたのはあたしがそう願っていたからか。
あたしは足を止める。
先ほどまで聞こえなかった強い雨音が耳に届いた。
だが、それを上回るような激しさで心臓の鼓動が鳴り響く。
彼女は呼び止めたきり、その場に立ったままだ。
どうしていいか分からず、あたしは上目遣いに彼女の様子を窺う。
いぶきは思い詰めた表情をしていた。
悪いのはあたしなのに、彼女の方が罪を犯したような顔つきだった。
居たたまれない気持ちになる。
頭の中は真っ白で、言葉が出て来ない。
あたしは逃げ出した。
自分の部屋へと。
それが最悪の選択だと分かっていたのに、あたしはそれしかできない子どもだったのだ。
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