第15話 令和3年4月20日(火)「蜘蛛の糸」岡本真澄

 週末に行われる生徒会長選挙の対立候補は今日も学校を欠席している。

 これで私が圧倒的有利になったはずだ。

 にもかかわらず、生徒会室は重苦しい空気に包まれていた。


 外の麗らかな陽気とは対照的だ。

 人工の灯りの下で、たったひとりの不機嫌な感情が部屋の中に沈黙をもたらしている。


 あの日、あの時以来、生徒会役員の間では気まずい空気が漂っていた。

 目を逸らし、当たり障りのない会話に終始する。

 そんな中で、それを引き起こした張本人だけが何ごともなかったかのように振る舞っていた。


 だが、今日の昼休みにやって来た彼女は荒れ狂う一歩手前といった顔つきだった。

 選挙に備えて役員全員が集まった生徒会室で彼女はひと言も発しない。

 いつものようにチューブタイプのゼリーだけを昼食として口にした。

 空になるとそれを床に叩きつける。

 室内にいる全員に緊張が走った。


 私はこの数日食事が喉を通らない。

 いまもほとんど手をつけないまま弁当箱を鞄にしまった。

 ほかの人たちもこの暴君の態度に箸を持つ手が止まったままだ。

 彼女は自分の指定席である部屋中央の豪華な椅子に腰掛け、苛立たしげに爪を噛んでいる。

 小刻みに身体を揺すり、その振動がここまで伝わってくるようだった。


 声を掛ける者はいない。

 誰もが怯えた目をしている。

 普段は高慢さを隠さない生徒会長でさえも。


「1年の教室を回ってきます」と言って私は席を立つ。


 なるべく自然にしているつもりだが、心の中はまた呼び止められないかとビクビクしていた。

 胃がキリキリと痛み、心臓の鼓動はこの静かな室内だとほかの人にも聞こえるのじゃないかと思うほど激しく脈打っていた。


 生徒会長はこちらを見て微かに頷いた。

 双子の林原姉妹は一緒に行きたそうな目をしていたが、私はそれを無視する。

 高階たかしな円穂かずほは不吉な顔をわたしの方に向けなかった。

 自分の考えに没頭している彼女を刺激しないよう慎重に私は部屋を出る。


 廊下は別世界だった。

 まだ油断はできないが、扉一枚隔てただけで平穏が感じられる。

 悪魔に支配された闇の中から、明るい陽差しに照らされた場所へ。

 しかし、私は知っている。

 この闇から逃れる術がないことを。


 廊下を歩いて行く。

 1年生のエリアは現在も上級生は立ち入り禁止となっている。

 いくつかある通路には学校の職員が立って見張っている。

 昨日は高階先輩が生徒会役員の権限を利用してかなり強引に突破した。

 そのせいで職員の数が増員されたと聞いている。


 そのエリアに入る直前に私のスカートのポケットに入れてあったスマートフォンがブルッと震えた。

 一瞬立ち止まりかけたが、私は誤魔化すように咳払いをして歩き続ける。

 学生証と選挙管理委員会が発行した許可証を示して、1ヶ月前まで毎日通った空間に足を踏み入れた。


 校内はあの悪魔の手先となる生徒もいるので息が抜けないが、ここは比較的安全だろう。

 私は教室ではなく近くのトイレに向かった。

 教室が並ぶ廊下の両端にトイレが設置してある。

 女子高なので教室の最寄りのトイレはすべて女子トイレだ。

 そこそこ広いトイレだが、それでも数が少ないと生徒には不評だった。

 本来の目的以外に使用しないようにと生徒会からも呼び掛けているが、実際はあまり守られていない。


 この時間もトイレには順番待ちをする生徒が何人かいた。

 私は「いいかしら?」と列の先頭の子に声を掛ける。

 睨むように私を見たその生徒はスカーフの色に気づき慌てて「どうぞ」と態度を変えた。

 こういうことをすれば何票か失うかもしれない。

 それが分かっていても私には急ぐ必要があった。


 すぐに生徒が出て来て、入れ替わるように私は個室に入った。

 手早くスマートフォンを取り出す。

 そして、便座の蓋を手持ちのウェットティッシュで丁寧に拭き取り、その上に腰掛けた。


 着信の履歴を確認する。

 掛け直すとすぐに相手が電話に出た。

 その間にトイレットペーパーを使って音姫のボタンを押す。

 流水の音の中でも彼女の声ははっきりと聞き取ることができた。


『考えていただけましたか?』


 挨拶もなしに始まった会話。

 私は喉元まで出掛かった『助けて!』という叫びを、唇を噛んで飲み込む。

 相手はほとんど見ず知らずの1年生だ。

 いくらほかに当てがないと言っても、歳下に助けを求めるなんて……。

 それに相手が助けてくれるとは限らないし、あの悪魔に敵うとも思えない。

 所詮は虚しい願望だ。


 とはいえ、このまま行けば地獄のような1年間が待ち構えていることが目に見えていた。

 いや、1年間で済むかどうか分からない。

 永遠につきまとわれる可能性だってある。


 苦しみの中で絞り出した言葉は『無理』だった。

 自分で言っておきながら、自分の発した言葉に絶望を感じる。

 胸が締め付けられ、吐き気が強まった。

 もう吐くものなんて何もないのに。

 私は目を閉じてこの身体の中の嵐が去るのをジッと待った。


『そうでしょうね』


 電話口から聞こえてきた声はすべてを見透かすようなものだった。

 この1年生が何を知っているのかは分からない。

 だが……。


『ひとつ、お願いがあるのですが』


 彼女はそう切り出すとその内容を告げた。

 私はいつもより働かない頭を懸命に使って計算する。

 メリットとデメリット、そしてリスクの大きさを。

 相手は辛抱強く待っている。

 朦朧としながら、私は『分かった』と承諾の言葉を返した。


 電話を切ると大きく息を吐いた。

 自分の決断がどうなっていくのか、まったく想像ができない。

 私はスマートフォンを元の場所に収める。

 そして、胸元から自分のスマートフォンを取り出した。

 スケジュール帳を開いて確認する。

 私は彼女からの頼まれ事を果たすために、これからするべきことを力を振り絞って考える。

 決して彼女に知られてはいけない。

 細心の注意を払えば大丈夫なはずだ。


 スマートフォンを胸元のポケットに戻し、立ち上がろうとした。

 しかし、よろめいてしまう。

 足に力が入らない。

 私は手が汚れることも構わず、壁に手をついて立ち上がった。

 このままだと選挙当日に候補者不在となる可能性が頭をよぎる。

 それもいいかと思いながら私はトイレのドアを開けた。




††††† 登場人物紹介 †††††


岡本真澄・・・臨玲高校2年生。生徒会副会長。23日に行われる生徒会長選挙に立候補している。


高階たかしな円穂かずほ・・・臨玲高校3年生。生徒会に所属しクラブ連盟長の役職に就いている。反社会的勢力との繋がりを持つ。


芳場美優希・・・臨玲高校3年生。生徒会長。現職の総理大臣の娘。円穂のことを疎ましく感じてはいたが、その能力の高さゆえ手を借りることも少なくなかった。


日野可恋・・・臨玲高校1年生。真澄の対立候補。昨日から体調不良を理由に学校を欠席している。

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