第33話 現れし者

「おすわり!!」


 殺伐とした世界を崩す場違いな言葉を紡いだのは、凛として透き通る女性の声だった。

少し幼さを感じさせる高音のその調べは、このような中でも耳にした瞬間不思議と惹き付けられてしまうそんな魅力がある。


 だが、だからと言ってはあまりにあり得ない現象だろう。

何しろその言葉にまるで強制力でもあるかのように、あれだけ荒れ狂っていた化物が地べたに這いつくばっているのだから。

 例えるならば絶対者に対しての服従だろうか、両手足を地べたにつけ首を垂れている姿は平伏しているかのように見える。

 しかも化物の背中は不自然なまでにだ。動物特有の丸みや凹凸、毛の不揃いさが無くなってしまっている。その形状はまるで時のように、硬い体毛が均一の位置で折れ潰れている。

 またそれを裏付けるかのように化物が手足を突いているコンクリート床が罅割れ窪んでいた。何トンもの荷重が加えられたかのようにミキリ体を軋ませ、さりさながら見えないプレス機械にでも潰されているかのようだ。


「・・・・・・・・あ、ぇ!?」


 賢志の口から漏れ出したのはそんな意味のなさない音だった。


 既に限界など振り切った賢志の精神はダメ押しとも言える怪現象に、女の子へ覆いかぶさったまま唖然とも愕然ともつかない顔で固まっていた。


 しかしそれも束の間の事。


 化物周辺に差し込む光源を追うように、震える手を突っ張り体を起こすと階段の上部を見上げた。


 その先にあるのは閉ざされていた外の世界だった。

 眩しいばかりのオレンジに色付いた夕暮れの空。あれほど遠く辿り着けなかった日常が扉を開いていた。


目を細める賢志。それは眩しさからでは無く見定める為の仕草。

 茜空を背景に浮かぶ一つのシルエット。

 四角の窓枠に切り取られたその情景はさながら絵画のように美しく幻想的だ。だがだからと言って見惚れているばかりでいられるほど状況はのんびりとはしていない。


 逆光に浮かぶシルエットはある特徴を如実に浮き彫りにする。


扉の所で佇むシルエット、それはまさしく女性のもの。


 揺れる長い髪とはためくスカート、そして肢体には起伏のある曲線。線は細く滑らかに、どこか優美な趣さえ感じ取れるまさしく絵画の主役。


 その美術品が動き出す。

 カツリと軽やかな音を立てゆっくりとした足取りで階段を降りてきた。


「・・・・っ」


 唯でさえ暗く閉塞的な地下、そこが今や恐怖と狂気が入り混じる処刑場と化している。そこはとても女性が立ち入るような場所ではない。


 賢志は来るなと叫ぼうとした・・・・・・が声は出なかった。

 詰まるような、押し込められたような、上手く息が喉を上ってこず音をなすことが出来なかった。


 しかしそれは体力的や身体的損傷によるものでは無い。

 階段を下りる女性から醸し出される雰囲気に思わず飲み込まれていたからだ。

 場所が場所であればきっと有名な歌劇団員のような優雅な足取りで、厳粛な神楽の儀式でも見ているかの様な荘厳さ感じる。

 持って生まれたものの威厳とでも言えばいいのか、洗練された動き一つ一つが実に様になる。

 そこから醸し出されるのは恐怖や脅威とはまた違った別な怖気、得も言われぬ圧倒感。


 女性は滔々階段の一番下までやってくる。その足取りに躊躇いも戸惑いも無い。粛々と無言で段を一つ一つ踏み下りる。底にいる化物などまるでないものの様に実に自然に。


 そして全ての段を折り切った女性は躊躇無く化物を踏みつけた。そしてまるでそうする事が当たり前だと言わんばかりに傅く化物の背中に乗るとそのまま前へと進む。


 何度命の危機を感じとったか分からない凶悪な化物であり賢志にとっては正に死の気配が凝り固まった異形。それがただの踏み台として這いつくばっている。

 それがどれほどまでに異常な事か。

 今まで散々非日常に見舞われた賢志でも目を白黒させてしまう程だ。

 だからだろうか、ことにも、女性の足と化物との間に僅かな隙間があることにも、賢志は目の前に超常が発現している事に全く気が付いていなかった。


 賢志が呆然としている間に、女性は階段の続きのように化物の頭をステップに床に降り立った。

 そして滔々賢志の目の前にまで来ると、軽く腕組みし視線だけを賢志へと向けるのだった。


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