第32話 兆し
「ごはぁ!」
背中をタンクに叩きつけられ肺から大量の息が吐き出される。怒る化物の体当たりに賢志は弾き飛ばされた。
化物は金色の目を血走らせ、自分に傷を負わせた弱者に怒りと憎しみを湧きたたせる。体から伝わる激痛が捕食者としてのプライドを傷つかせていた。
化物はこの世界に呼ばれてから絶対の強者だった。自分を害するものなどこの世界にはいなかったのだ。
好きに甚振り、好きに弄び、好きに食べる。
化物は間違いなく王者だった。
だと言うのにだ。
弱く小さな得物に傷を負わされた。痛みを与えられた。
化物は逆上に我を忘れた。
屈辱だ・・・・・許さない・・・・・許さない。
弾き飛ばされた賢志に追い打ちが迫る。獰猛な牙がその首筋に食いつかんと迫りくる。
賢志は咄嗟に鉄パイプを盾にした。生暖かで嘔吐きたくなる腐臭が顔にかかる。手足を踏ん張り牙を何とか凌ぐ。
しかし化物を止めるには至らない。
今度は爪が賢志を振り落とされた。
防げない、そう悟った賢志は目を見開く。
叩きつけた爪はタンクに深く刺さっていた。
擦れ擦れだった。賢志の頭、その直上で化物の腕が止まっていた。
それからほどなくして化物はよろけるとその場で膝をつく。
先ほどの感電の影響か、化物は動かなくなった。
賢志はすかさずその場から駆けだした。
「ハァ、ハァ・・・・・」
今まで以上の命の危機に心臓が破裂してしまいそうなほど鼓動している。
だが賢志に休んでいる余裕など一切無い。
しかもこれはチャンスでもある。
最早賢志に化物を倒す手立ては無くなった。しかし賢志が与えた電気による攻撃は化物を確実に弱らせている。そして化物は今動けない。
ならばもうとる手は一つだけだ。
女の子を連れてここから抜け出し、それから化物を建物内に閉じ込める。
賢志は女の子の元へと駆ける。
恐らく折れているだろう肋骨がじくじくと痛み呼吸もままならない。
だがこの機を逃せばもう後はない死力を振り絞る。
タンクを回り込み隠れていた場所まで戻ると賢志は声を上げた。
「逃げるよ!」
女の子は隙間の端にいた。きっと賢志の事が気になってしまったのだろうが、逃げるのに都合が良かった。
賢志は女の子の手を取り引き上げる。
きっと恐怖から足腰が抜けているのだろう。女の子は足が縺れ自分で立ち上がる事すらできていなかった。だが賢志はそんな女の子を強引に引きずり出口へと向かった。
狭い地下室内、出口につながる階段までは直ぐに辿り着いた。
上の扉から僅かに洩れる光が、もう少しだと賢志を励ましてくれているように思えた。
賢志は歯を食いしばり痛む体に鞭を打ち女の子を抱え上げる。
これを上れば助かるのだと賢志は階段に足を掛け・・・・・・・・・・・・そして、視界がブレた。
ズシリと重い衝撃に次の瞬間賢志の体が宙を舞っていた。
「・・・・ッカフ」
投げ捨てられた人形のように床を転がると壁にぶつかりようやく止まる。
横倒れの視界にはぐったりと倒れた女の子の姿。
(・・・・・何、が)
今にも暗転してしまいそうな意識が動揺に揺れる。何が起きたのか、朦朧とした賢志には理解が追い付かなかった。
体がズルズルと引きずられていく。何も抵抗できずに賢志は逆さまに吊るし上げられた。
そしてやっと賢志は自分たちに何があったのかを理解した。
化物に脚を掴まれ宙づりにされていた。
叩き飛ばされたのも化物の手によるものだろう。いつの間にか立ち上がっていた化物に賢志ややられていた。
脚に爪が食い込む。人間を遥かに凌駕する膂力が賢志の足の骨は今にも砕かんとばかりに握る。
朦朧とする意識、だらりとする体。
賢志の虚ろな目に闇と同化する化物の金の瞳が映る。
体が動かなかった。脳が揺さぶられた一時的な影響なのか、或いは神経系がやられてしまったのか、ただどちらにしても掴まってしまった賢志にこれ以上の成す術は無かった。
(ごめん、愛理ちゃん)
最早これまでか、そう悟った時に思いだすのはやはり愛理の事だった。そして賢志は家族のように慕う少女に詫びた。
きっとあの姉の様な少女は賢志が居なくなったら悲しむだろう。どこまでも面倒見が良く優しい彼女の事だ、涙を流し悲嘆にくれるに違いない。
それを思うと賢志は何よりも苦しかった。自分の所為でまた彼女を悲しませるのが辛くてたまらない。
結局何も出来なかったのか、そう思った時、悔しさに涙が零れだした。
そんな賢志をあざ笑うように人狼の大きく裂けた口の端が持ち上がる。絶対的強者の捕食者が得物を捕らえ満足げに喉を鳴らしていた。
唾液を滴らせた大きな口が開く。口内で舌が喜びに踊る。
(きっと・・・・・あの人も)
自分の最後にふと浮かぶもう一人の人物像。
それは後姿の長い髪の女性。
真っ白で儚い成人の女性の姿。
女性が振り返るのだが何か靄がかかったように女性の顔が分からない。
(あぁ・・・・・・君は、だれ・・・・・)
それは朧気で実に曖昧な記憶。だが確かにその人を賢志は知っている気がした。だがそれが誰だったのかを思いだせない。
『思いだせ』
そんな時だ。
賢志に呼びかける声が脳に届く。
それは走馬灯のように過ったあの時と同じ声。
不思議と馴染む聞き知った声。
『思いだせ。俺が何なのかを・・・・・そしてあの人の事を』
胸の奥が熱い。
賢志の中から何かが溢れ出してきている、そんな気がした。
そしてそれを感じ取った時、賢志の低迷していた意識が急激に浮上する。
目の前には今にも齧り付こうとしている化物の顎があった。あと数センチで賢志の頭はその中に納まり噛み砕かれてしまう。
だがしかしその時は一向に訪れない。
何故ならまるで止まっているかのように全てがゆっくりと流れていたからだ。
まるでスロー再生された世界にいるようだった。
裂けた配管から流れ落ちている水、そのしぶきの一つ一つを数えられるほどゆっくりと宙を流れている。
(何だ・・・・・・これ?何だこれは!?)
その不思議な現象に賢志は目を見開く。気付けばあれだけ動かなかった体が動いているのもそうだが、この止まった世界で賢志だけが動けている。
『思いだせ。さすれば俺は・・・・・』
そしてまたしても頭に響く声。
「誰だ!?何を言っている。思いだすって何を」
賢志は声に呼びかけた。だがそれに返事は無い。
頭がズキリと痛みだす。脳が膨れ上がってくるようなそんな圧迫感に襲われる。
パリンと何かが割れたような気がした。
そして気が付けば賢志は未だ話していなかった鉄パイプを引き構えていた。
ふっと短い息を吐き出す。
賢志は引き構えた鉄パイプを勢いよく突き出した。
グジュリと手に絡む鈍い感触。今にも食いつかんとしていた化物の口の中、そこへと鉄パイプが突き刺さり先端が喉を突き破って首の後ろに貫通する。
それは宙吊りにされた人間が放つにはあまりに規格外な威力だった。
「ギャアアアガガガアアア」
再び世界が動き出した。
化物が激情の悲鳴を上げのたうつ。掴んでいた賢志を手放し化物が激痛に暴れまわる。
地面に落とされた賢志は息を詰まらせもんどりうった。
先ほどまでの不思議な感覚は既に消え去っている。代わりに高熱を出した時の様な倦怠感が襲ってきていた。
手足を動かすのも億劫になるほど全身が重く怠い。鉛の重しを全身に取り付けられているような気分だ。
だがそれでも賢志は這いずる。
倒れている女の子へと這い蹲いに進んでいく。
女の子は意識を無くしていた。まさかと最悪な事態が脳裏をよぎるが、よく見れば女の子の胸が規則正しく上下していた。
床に溜まっていた水の所為で随分と冷たくなってしまった小さな体を、賢志は自分の背中へと何とか引き上げて背負う。
だがいざ立ち上がろうとするがべしゃりと潰れてしまった。
脚が震え力が入らない。カタカタと揺れる脚は全く踏ん張りがきかない。きっと女の子を背負っていなかったとしても立つこともままならなさそうだ。
それだけ賢志の体は満身創痍となっていた。
きっとあの不思議な感覚の時、常軌を逸脱した膂力も影響しているのかもしれない。
もう賢志の体は限界などとうに過ぎていたのだ。
それでも賢志は足掻く。
女の子を背に乗せたまま腹ばいになり出口を目指す。
閉塞空間に乾いた音が反響した。
化物が喉に刺さった鉄パイプを引き抜いていた。
「くそ、くそ、くそ、くそぉ!」
賢志はズルリズルリと床を這いずる。だが所詮は地を這う芋虫のごとき鈍重さ。
口内から血を滴らせた化物が、激情に眼光を光らせながら賢志の上で爪を振り上げていた。
賢志は咄嗟に女の子に覆いかぶさった。
「おすわり!!」
だが賢志に訪れたのは死でも無ければ痛みでも無かった。
それは美声であり、場違いな言葉。
そして、目の前でベシャリと押しつぶれた化物の姿だった。
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