第28話 愚者
目の前に立ちはだかるものは紛れもない化物だった。
醜悪に裂けた長顎から覗く牙が軋みを上げ、獣の様な頭部をした醜き人型は、さながら物語に登場する【狼男】のようだった。
それはあの黒い靄に触れた時に見た、人間を餌にする食物連鎖の上位の捕食者と同じ、暴食の獣にして残虐な殺人者。
地球上の生物とは凡そ思えないその歪な存在は、脆弱な人間が抗う事など不可能だと言わんばかりの巨躯をまざまざと見せつける。
その咆哮は威嚇なのか或いは喜びの表れなのかは分からない。だが存分に含まれた殺気は明らかに目の前の得物へと向けられている。
唯人が受けるにはあまりに
金色の縦に裂けた瞳に睨まれた賢志は意とも容易く生き残る気概を奪われた。成す事全てが無駄なのだと体から力が抜け落ちていく。
それほど立ち塞がる脅威はあまりに圧倒的過ぎた。
「あ・・・・・・・ァ、ぁあ・・・・・・・・」
だがそれでも賢志の意識は辛うじて耐え忍んでいた。
閉じることすら忘れた口から唾液を漏らし、呆然自失とする中でも、意識だけは手放す事が出来なかった。
それは賢志にとっては酷い災難なのかもしれない。
気絶出来たならばこれから起こりえる無残で無情な苦痛を無駄に味わうことも無いだろう。
(僕は・・・・間違った・・・・)
化物を目の前に賢志は自身の行いに後悔した。
賢志がここまで来てしまった原動力は自責の念の部分が大きかった。傷つけてしまった愛理への、知っていたのに何も出来なかった少女への。
そこにいるものが何であるのかどんな存在であるのか、その凶悪さを分かっていたはずなのに、それをどうにかできる自分では無いことも分かっていたはずなのに、罪悪感と自分に対する嫌悪感、それを贖罪したいという逃避が賢志をここまで踏み入ませていた。
いや一番の理由は愛理を失う怖さからだろう。
だから誰ともつかない悲鳴に衝動的に動いてしまった。
それが愛理かもしれないと片隅に思い浮かんだらもう止まれなかった。それはもう逃げる事を許さない強迫観念に近かった。
後ろ向きに流されて来た賢志には信念が無い。どうしようもない負の感情に耐え切れず、何かに引きずられる様にここまで来てしまっただけだ。
故に覚悟など無かった。
賢志は自身の命が危機にさらされて初めて事の重大さを悟った。最悪な結末を、自らの命が無くなることを今ようやく理解した。
だがそれを悟った時にはもう何もかもが遅かった。死は間近でほくそ笑んでいた。
これは蛮勇と呼ぶのもおこがましいほどのただの無謀でしかなかった。
何も出来ず見上げる賢志の瞳には、これから自分を引き裂き死をもたらす凶器が映っていた。
暴食の獣が振り上げる手から生える鋭く真っ赤な爪。
果たしてそれはランプが照らし出したものなのか、或いは今まで獲物を引き裂いてきた驕の彩なのか。
唯分かっているのはこれからそれが更に濃く染められるという事。
賢志は事の終わりをただ待つ。
断罪を受ける在任が如く膝をつき顔に絶望を張り付け己の愚かさに唇を噛んで。
(馬鹿だ・・・・僕は)
十五年しか生きていない少年は死の恐怖を直視できず強く瞼を閉じた。
『・・・・だせ』
何かが聞こえたような気がした。
何処か懐かしく、そして馴染みある。それが遠くから自分を呼びかけているように思えた。
『お・・・・だせ』
誰かの声だ、それが分かった時、賢志はこれが走馬灯なのかと考えた。
『思・・・・だせ』
その声は段々と強くなる・・・・・・・いや違う。段々と近くなっている。
『思いだせ!!』
そしてはっきりと聞こえた瞬間、賢志の頭に激流の様に何かが流れ込んできた。
それは白い、とても真っ白な・・・・・・女の人の姿。
泣きそうとも辛そうともとれるそんな表情でこちらを見据える一人の女性。
だが顔ははっきりとしない。ぼやけた感じに揺らいでいる。
あぁ、そうだ俺は・・・・・・・。
賢志は目がカッと開く。
その眼差しには確かな活力が満ちていた。
(僕は・・・・逢うべき人がいるんだ!!)
だがその時には既に化物の剛腕は振り落とされていた。
血を求める赤爪が賢志の体を引きちぎらんと襲い来る。
その時の賢志は殆ど無心に近かった。
しかし強く握りしめた鉄パイプを振るう瞬間、確かな意思がそこにはあった。
本能と呼ぶものがあるのならば正にこれがそうなのだろう。生存を賭けた渾身の一撃は、賢志をこの場の窮地を脱する最善手となった。
打ち付けたのは
思いもよらない得物からの反撃に化物は体勢を崩した。
シュと耳元を寒気のする音が通り抜ける。
顔の直ぐ脇には化物の腕。あの凶悪な爪は容易く床のコンクリートを窪ませ穴を穿つ。
頬に生温な感触が伝う。直後訪れたのは焼ける様に耳元からの痛み。
だが賢志は生きていた。生き残っていた。
耳の痛みがそう教えてくれる。どくどくと流れ出る血がその証拠だ。
しかしそれを喜ぶことなど今は未だ到底できない。何しろ賢志の置かれている死の危機は何も終わってはいないのだから。
(動け!動け!)
強張る体に鞭を撃ち賢志は再び動き出す。
だがその動きは実に無様としか言いようがない。凡そ真っ当な人がとるような動作ではなかった。だがそれが賢志の必死さの表れ。何があっても生き延びようとする意思の形。賢志にもう先ほどまでの諦念は無い。生き延びるために全てを尽くす。
幸いにも近くに鉄製の太い配管が束になっている場所があった。
あそこなら身を隠せる。賢志は鉄管の下に転がるようにして潜り込んだ。
非常に狭い隙間。だがそれが返って賢志を安心させる。
隙間は細身の賢志が何とか体を動かせる程度しかなかった。ここならば巨体の人狼では入り込むことは出来ないだろう。
だがそう楽観したのも束の間、ギシギシと軋み音が鳴る。
ほんの数センチ、賢志の足先を化物の爪がかすめていく。
「っ!?」
二度三度と鉄管を押し上げながらにじり寄る化物の文字通りの魔の手。賢志は背中で這いずり奥へ奥へと後退さる。
早くと焦る気持ちに地面を蹴る脚が何度も空ぶる。果たして進めているのか、賢志には全く進めていない様にすら思えた。それでも只管に奥へと賢志は這いずっていった。
そして気が付けば引っ掻く音が聞こえなくなっていた。恐る恐る振り返るとそこにはもう化物の姿は無かった。
それを確認すると賢志は脱力した。
張り詰めていた緊張が心もとない場所とはいえ、一時的にも脅威が去ったことに思わず安堵に力が抜けてしまったのだ。
興奮状態で気付かなかったが、賢志は精神的にも体力的にも既に限界を超えていたのだ。
すると今度は耳の辺りからの脈打つような激しい痛みと熱が押し寄せてきた。
そっと手で耳に触れるとビリッとした激痛に「うっ」と呻き声が漏れる。
どうやら耳の一部を抉り取られてしまったようだ。本来あるべき耳たぶがそこに無かった。賢志の手にはぬめりとした血がべったりと付いていた。
その事実に叫びそうになるのを瞼を強く閉じて堪える。今ここで叫んでしまえばどうなるか分からない。
しばらくすると賢志は落ち着きを少しだけ取り戻した。
増して行く激痛に耐えながら賢志は辺りに目を凝らす。
寝返がやっとの狭い空間は埃とカビ臭さが鼻についた。漏れ出した水だろう、床が濡れている。
あれだけ暴威を振るっていた化物が今どこにいるのか分からないくらい静かだった。それが返って恐ろしくも感じるが、賢志は今やらなければならないことに集中する事にした。
(・・・・・・落ち着け、少しでも活路を見出さないと・・・・・それに、誰かいるのならまずそれを確認しなくちゃ)
隙間の中は更に暗かった。それこそ目の前にでもない限り物の判断は出来そうになかった。暗闇にだいぶ慣れた目でも光源が一切無ければ意味は無い。結局のところ手探りするしかなさそうだと、賢志は辺りを手で慎重に確かめていく。
(そういえば・・・・さっき何かを見たような気がするんだけど)
ここは猛獣の檻に暗闇の中放り込まれたような状態だ。その心痛は押して図るべきもの。恐怖感に気が狂いそうになりながらも辺りを探っていた賢志だったが、ふと走馬灯が過った時のことを思いだした。
だがその内容が何であったのかが今一はっきりとしない。
何かを聞いたような、見たような、そんな曖昧な記憶だけで、実際何を聞き何を見たのかが全く思いだせなかった。
しかしそれは今しなければいけない事でもない。走馬灯などそんなものだろうとそれを頭の隅に追いやると、改めて周囲の確認にいそしむ。
すると手に何かが振れた。
それは硬質なコンクリートや配管などとは違って弾力があった。
「っ!?」
まさかと賢志に戦慄に息を飲む。
そして直ぐに手を引っ込めようとしたのだが、その手を圧迫感が襲った。
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