第27話 遭遇

 夏場であってもの日の当たらない施設は、金属製のノブに触れると跳ねるような冷たさが伝わってきた。

 一瞬躊躇うも賢志はそのノブを握る。そしてゆっくりと回し扉を開く。

 重々しい金属扉は油が不足している所為か蝶番から軋みが上がる。僅かな音ではあったが賢志はびくりと肩を揺らし開けるのを止めた。

 開いたのはほんの僅かな隙間。

 賢志は躊躇いながらもその隙間に顔を寄せた。


 暗い、中を覗いた賢志が分かったのはそれだけだった。


 窓が一切無い建物内はそれこそ真っ暗の闇のよう。扉の隙間から差し込んだ光源では、入り口付近の床がコンクリートだと分かる程度でしかない。それより奥は全くと言って良い程見通すことは出来なかった。


 ただ視覚以外から犇々と伝わって来るものはあった。


 それはまるで火傷をしたかのように肌が刺すように痛む。

 実際に痛覚が刺激されている訳では無いのだろう、だが少なくとも賢志はそう感じた。

 そして重かった。

 中から流れ出てくるヒンヤリとした空気はまるでヘドロの様に、賢志の体にねっとりと絡みつく。

 「嫌だ」そう直情的な感情を掻き立てるそれは、さながらと呼ぶに相応しい何かだった。


「・・・っ!」


 息苦しさに扉から離れる。額から流れ出る汗はきっと暑さからでは無いだろう。

 ほんの数秒ほどだ、賢志が中を覗き込んだのは。

 だがたったそれだけでも、あの淀みは精神をこれでもかと怖気で浸食していく。


「怖気づくな。僕がやらなくちゃいけない!!」


 もろく崩れそうになる気持ちを虚飾の言葉で奮い起こす。滴る汗を無造作に拭い去ると、賢志は大きく息は吐きだした。


 中に居るのは愛理かもしれない。

 その強迫観念が賢志から退くという選択を排除させる。


 賢志は再びノブに手を掛けた。




 中は外に比べて随分と気温が低かった。

 嫌な空気感は中に入るとより一層強まる。それに賢志の表情が強張る。

 それが温度差によるものなのかはたまた別な感覚によるものなのか、どちらにしても賢志にとって居心地は最悪な場所だった。


 念の為と扉は閉めた。中に明かりと呼べるものは無い。暗さに未だ慣れていない目では視界がほとんど効かなかった。


 中に入って直ぐに階段が出迎える。知らなければ踏み外してしまう作りだが、賢志の足取りに迷いは無かった。見えてはいなくても賢志は昔の記憶から中の構造は凡そ把握出来ていた。


 半地下の施設、その下りの階段は段数も少なく短い。だが先を見通せない階段は、まるで地獄にでもつながっているかのように不気味だ。


 手が汗で湿ってくる。武器となる鉄パイプを落さない様にと握り手に力が入る。

 賢志は見通せない視界であっても頻りに辺りを巡らせ神経を研ぎ澄ませる。

 どこからか漏れ出しているのか水が流れ出る音がしていた。不気味なほど静かな建物内で賢志の呼吸と水の音だけがやけに耳につく。

 だがそれは不自然でしかない。


(・・・・あれだけ叫び声がしてたのに)


 その静けさが不安感と焦燥感が募る。もう手遅れだと、遅すぎたと言われている様だった。


(僕がもたもたしていたから・・・・いや、まだだ。まだ諦めるには早い)


 挫けそうになる心を必死に奮い起こし、賢志は階段を下りていく。

 音を出さない様一歩一歩慎重に足を運び、せめてもの防衛として無様ではあるが鉄パイプを顔の前に構える。


 幅の狭い階段だった。両手を広げれば余裕で両壁についてしまう程度の幅しかない。だから逃げ場なんて無いに等しい。だがそれでもと賢志は壁際により身を隠すようにして下りていく。


 10段ほどで階段は終わりだった。階段を過ぎるとその先には少しばかり広い空間が広がる。そこには団地の給水を支える設備が設置されている。

 設備部屋に出る前に賢志は壁に身を隠しながら中の様子を窺う。暗さに慣れだした目がうっすらと内部の輪郭を映し出す。


広さとしては二十畳くらいの部屋。ただ天井は半地下から一階建て分の吹き抜けとなっているので高い。だが決して広いと感じる事は無いだろう。

中央に巨大なタンクが鎮座しているからだ。

ここの世帯数を賄う程の水を溜めるタンクだ。その大きさは実に空間の六割を占める。その圧迫感は凄まじい。更にはタンクから壁面に向かって鉄製の配管が何本も通っている。その配管を伝って各家庭へと水を送っているのだが、その為ここには余剰の空間などほとんどない。

 出入口脇には給排水を行うためのポンプ設備がフェンスに囲まれて設置されている。賢志の記憶ではここはもっとうるさい場所であったのだが、どうやらポンプは停止しているようだ。モーター音が全くせず壁の制御盤からは赤いランプが点滅していた。

 その赤ランプが今ここの唯一の光となっている。

 それが不気味さに拍車をかけている。


 だがそれらは賢志の記憶にある景色と同じだった。それ以外は何も見当たらない。

 悲鳴も激しい物音も確かに聞こえてきた。その痕跡が、人の姿が、そしてあの化物の存在がここには見当たらない。

 何かあるはずなのに何も見当たらない、その不審さが賢志から慎重さを欠けさせ不用意に部屋の中へと半身を出させた。




 ゾワリ




 感じ取ったのは強烈な悪寒。


 全身の毛が逆立つ感覚に賢志は脳が判断するよりも早く体を床に転がした。



 直後だった。


 飛び散る破片。耳を叩きつける衝撃音。


 コンクリートの壁が、直前まで賢志の頭部があったその位置のコンクリートが、ごっそりと抉られたように砕かれた。


「っ!?」


 何が起きたのか分からず身を縮こませた賢志。だがその答えは殊の外簡単に知る事となる。


 賢志の見開く視界いっぱいにが映り込んでいたからだ。


「ひぅ」


 悲鳴とも取れない引き攣った声が喉でなる。

 放心状態だった賢志には強襲の号砲を上げた。


「グオォォォォォォォルァァァ!」


 電気の様にビリっと全身に狂気が走り抜ける。


「う、うあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」


 悲鳴が引き金となり、賢志は体を弾けるように翻すとその場から駆けだした。だが何よりも臆病さを露にした脚が縺れ直ぐに倒れる。しかし賢志の手足はそれでも止めることはしなかった。

 四足に這い蹲りから必死で逃げる。


 そこに襲い掛かるはまたも強烈な悪寒。


 賢志は全身のばねを使い近くの鉄管の下へと潜り転がる。

 次の瞬間、耳が引き裂けそうな金切り音が反響する。頑丈な太い鉄管は大きく拉げそこから勢いよく水が噴き出す。


 それでも賢志は止まる事はしなかった。生存本能が動けと命じる。

 体を転がし反対側へと潜り抜けるとくるりと立ち上がり走る。背後から迫りくる濃密な死の気配を振り切ろうと我武者羅に脚を動かす。一瞬でも止まればそれは死に繋がる。その脅迫概念から賢志は必死で逃げる。



 だがそれらは徒労なのだと絶望が立ち塞がる。



 ストンと軽い着地音。

 低い視線上に跳び込むのは毛むくじゃらの足。

 「あぁこれは獣だ」そう血の気が失せた脳が場違いな感想を抱き、賢志はその場で凍りつく。見たくない、そう思いつつも伏せていた視線を上へと持ち上げた。

 

 それは正に異形にして異常な闇。黒い毛深き影はを不気味に輝かせ、醜悪に歪む割れた口を大きく開く。


「グルオォォォォォォ!」


 けたたましい咆哮。それに共鳴するかのように部屋中が震える。


「っ!」


 賢志は悲鳴すらも出すのを忘れ愕然とその化物を見上げた。


 全身毛むくじゃらの肢体は見るからに強靭。しなやかに隆起する筋肉が今にも襲い掛からんと躍動している。

 双椀からは如何にも凶悪そうな鋭い爪は、それに掴まれれば最後、如何なるものでも意とも容易く引き裂かれてしまう事だろう。現に先ほどコンクリートや鉄が柔らかな粘土の様に砕かれ裂かれてしまっている。

 獲物を前にしてほくそ笑む長い巨顎。覗かせた幾重にも重なる牙は肉を求め唾液で艶を帯びる。


 暗闇でありながら光を帯びた金色のがギロリと賢志を見下ろしていた。

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